Sandara Botchの風景雑感 本文へジャンプ
目次
1,風景とは?について
2,日本の風景にといて
3,風景の時間変化について
4,美しい風景と珍しい風景について
5,風景の形状について
6,風景の色について
7,風景の香りについて
8,風景の音について
9,風景の親近感と疎外感について
10,風景とゴミについて
11,風景と絵画について
12,風景と写真について
13,風景と気候・天候について
14,風景と重力(引力)について
15,風景と水について
16,風景と空気について
17,風景と植物について
18,風景と動物について
19,風景と虫について
20,風景と雑菌について
21,風景と岩石について
22,風景と人工物について
23,風景と公園について
24,風景と感覚について
25,風景の未来について

1、風景とは?について

 国語辞典によると、風景とは(1)目の前にひろがるながめ(2)その場の様子、という意味と記述されています。風という字は、風をはらむ帆と風雲に乗る竜から成る形声文字だそうです。また、景という字は、太陽と高いところに立つ建物から成る形声文字とのことです。この二つの文字から、どのようにして「風景」という言葉が生まれたのかしりませんが、私の「風景画」の風景の意味は、どちらかと言えば(1)の意味です。よって風景画というよりは景色画というべきかもしれません。(ただし、「景色」には陶器の状態を表すという意味があるそうです。TV番組の「開運!なんでも鑑定団」で中島氏が「この伊万里焼の壷はなんとも言えないすばらしい景色である」などと連発?しています。日本語はややこしい。)ところで、景色を観賞するには本来客観的であるべきであると主張する方がいます。三大○○!、○○三景、○○名山など、誰が言ったのか、出所が不明な、あるいは個人的な見解での名所旧跡が数多く存在し、実際に行って見ると、さほどでもないこともしばしばです。しかしながら、景色は目で観賞しているのではなく心(脳)で観賞しており、また人は本来客観的な思考が不得意な生き物なので「客観的に景色を観賞する」ことなどできません。客観性を主張する方の「怒り」はなんとなく解かりますが、だからと言って客観的な見方の○○三景を見い出すことができるでしょうか?万人が美しいと思える景色など存在しないことは明らかです。最近の外国からの観光客は、これまで日本人が関心をもたなかった新名所(?)に続々と訪れています。「客観的に美しいもの」など存在しません。すべての物や者に客観的評価を与えることなどできません。ただ、時間に追われて生活している現代人にとって、例え個人的見解であっても、三大○○などと言って貰えれば、それを手がかりに癒しの景観を求めて旅行することは決して迷惑なことではなく、かえって歓迎すべきことなのです。もちろん、何を言っても良いということではありませんので、個人的見解とか○○委員会の見解などの注釈をパンフレットに記述しておいた方が良いかもしれません。よって、私の描いた風景が○○三景に匹敵するほど美しい景色であるとは決して言わないつもりです。(ただし、私の絵を見た方が美しい景色であると感じたとしても誰も咎めないと思いますが。)

 さて、私は「風景画」を描いている以上、風景とは?という課題に一度は取り組むべきものと思って、風景雑感を記述しています。無論、結論的なことを得ることができるとは思っておりません。風景論や風景学が学問的な分野として確立されているとは思われませんので。ただ、この小さな地球という天体の日本という表面に住んでいる以上、「なぜ美しい風景が存在するか?」について考察することは無駄なことではないように思います。もし、そんな考察は無駄なことだとお考えの方はこれ以上は、お読みにならないでください。なお、「風景」という言葉にはあまりにも多くの意味があるため、「自然の風景」ということに重きをおきたいと思います。私は偽りの活気で満たされた都会があまり好きではないので、都会の風景はなるべく無視するように心がけています。(ただし、その線から脱線したとしても、それを咎めないでください。なぜならば、私は「風景」の意味を正確に把握してないので!)


2、日本の風景について

 やはり日本の風景について考察するときに「日本風景論…志賀重昴著」を無視する訳にはいきません。志賀重昴氏(地理学者)は「日本ライン」(長良川中流域)の名付け親としても有名です。この著書は日本の風景を海外と比較しつつ、科学的な考察も含めて、一見客観的であるかのごとく日本の風景の美しさを記述しています。このため、日清戦争に勝利した当時の国威高揚の気分と相俟って、ベストセラーになったとのことです。とくに火山などの山岳についての記述が多く、近代登山の先駆けとなったと評価されています。ただ、日本風景論には海岸に関する記述が少ないのが気になります。日本は海に囲まれており、房総半島、陸中海岸、伊勢志摩など、日本には多くの美しい海岸の風景が散在しています。私は海での釣りが趣味なので、特に海岸の風景が好きです。 さて、私は国粋主義者ではないので、日本の風景が世界の中で最も美しいとは記述したくないのですが、やはりそのように記述せざると得ません。私が訪れた国はアメリカ、ヨーロッパ、中国などそれほど多くはありませんが、やはり日本の風景は他国に比較して美しいと感じます。なぜそのように感じるのでしょうか?確かに、海外には、珍しくまた見たことの無いような景色が多々あります。しかしながら、そこが日本の風景に比較してより美しいとは思えないのです。景観は主に視覚が中心となって感じるものですが、おそらく味覚に見られるような慣れ親しんだ感覚に対する愛着のようなものが視覚にもあるためではないかと思います。また、少年時代に暮らした町や野山の景観が美しく思えたりするのは、その当時の状況に懐旧の情を感じるからかもしれません。ただし、日本の景観は他の地域と違い地下に多くのプレートが集まっており、更に海からの風雨が大地を侵食して、起伏に富んだ地形が形成されていて、かなり特徴的な景観を呈していることは事実です。関東平野のような平坦で活気に溢れた景観がある一方、ウィリアムゴーランドが日本の山々を日本アルプスと称しましたが、日本には静けさや清涼感のある山岳地帯も多く存在します。ただ私は、東京などの一部の大都市を除いて、日本全体の景観は比較的穏やかで、時間がゆっくり経過するような景色が多いと思います。(ただし、近年は観光客の増加により、必ずしもゆっくりとはしていませんが、)侘びや寂びの心はそのような景観から生まれたのかもしれません。片隅に神社仏閣のある里山は、そのような景色の代表であると思います。日本の7割以上が山岳地帯ではありますが、季節や天候にもよりますが、八百万の神が住む日本は決して荒々しいものではありません。多くの植物や動物が生息することのできる、やさしく清涼感あふれる景観が多い国だと思います。

さて、日本風景論 に論じられているように、本当に日本の風景は美しいのでしょうか?私にはそのように思えますが、海外からこられる方々はまた違った感想を持つかもしれません。自国の景観が最も美しいと。「美しい」と感じる心は、いったい何処から来たのでしょうか?もしかしたら、その心が私達に生きる喜びを与えているのかもしれませんが、知らず知らずのうちに、国粋主義者になっていたりして…。ところで、「美しい」という言葉の概念自体にも問題があります。「美しい景色」、「美しい音楽」、「美しい態度」など、美しいという概念はよくわかりません。(でも、私は「美しい」という言葉をかなり使用しています。特に女性の前で、あなたはとても…)


3、風景の時間変化について

 風景は時間や天候、季節などいろいろな条件によって変化します。(現在の科学的知識によれば時間の経過と共に変化しない物は存在しないようです。ただし、陽子についてはカミオカンデで確認実験中とのこと。)よって、厳密に言えば、同じ景色は二度と見ることができないことになります。しかしながら、私の記憶はそれほど厳密ではないので、以前に来た同じ場所に立つと、同じ景色を見ているような気になります。これは多分、私が景色が変わらないことを望み、期待しているからだと思います。(人はみな歳をとることに抵抗を感じつつ変化を期待する変な生き物ですね!)私は生まれてこの方、3度引越しをしています。以前、私が御幼少の頃(ガキの頃?)住んでいた場所を訪れた際、その変わりように愕然としたことがあります。無論景色が悪くなっているわけではありません。ただ、嘗ての面影がまるで消失していたのです。とてもその景観を好きになる気になれませんでした。だから私は、風景写真を撮ったりその絵画を描いたりしているのかもしれません。風景画を描くのは、変わらない景色を望んでいるからなのかもしれません。これは嘗て肖像画を書かせた西洋貴族も自分の時間変化を留めたかったのでしょう。写真や絵画の基本は時間変化を留めたいと願う心から出発していると思います。でも、よく考えると、写真を撮ったり絵を描くから、変化がわかってしまうのです。したがって、写真や絵によって過去の状況を残さなければ、私のような記憶力の乏しい人間は、簡単に過去を清算し、現状に甘んじることが可能です。そして、その方が幸せかもしれません。でも風景画を描いてしまうのです。写真を撮ってしまうのです。なんと矛盾した話ではありませんか。もっとも、人はいつも矛盾した心を抱えて悩んでいるのかもしれません。しかしながら、過去の知識があるからこそ、現状を認識することができるのです。やはり、写真や風景画は重要な遺産になると思います。人は過去を反省しつつ歳を経て成長しなければなりません。いつまでもチャラチャラしていてはいけません。この世は全て諸行無常です。これには誰も何も逆らえません。(なお、私はほとんどいつもチャラチャラしていません、と思っています。)


4、美しい風景と珍しい風景について

 私は美しい景色を求めて、旅をしたり、各地を歩き回ることが好きです。ただし、資金が不足しているため、日帰りがほとんどです。また、同じ場所を何度も訪れます。同じ場所でも季節や時間によって、その景観はかなり違うためです。でも時々、私は「美しい」景色を求めているのか「珍しい」景色を求めているのか、自分でも解からなくなることがあります。確かに、美しくないと感じた場所を何度も訪れることはありません。しかし、美しい景色を求める心は、もしかしたら珍しさのような一種のドキドキ感を求めているのではないかとも思います。千葉県の鋸山には「地獄覗き」なる場所がありますが、そこからの海の眺望は美しいと思う一方、「怖いもの見たさ」のような珍なる感覚があります。「開運!なんでも鑑定団」というTV番組で、陶器や絵画の価値がその美術的なものではなく希少価値(珍しさ)にあることがしばしばです。美術工芸品の価値は@美的な価値A希少性B需要と供給で決まると言われますが、これは風景にも当てはまるのではないでしょうか。更に、見てみたい風景には、見ることが困難な(要するに、珍しい希少価値の)風景があります。箱根の地獄谷などがその例です。さらに、砂漠などの荒涼とした風景も見てみたい風景です。鳥取砂丘などもその例だと思いますが、それを美しいと感じる方も居られるのではないでしょうか?景観の価値は美しさ、珍しさ、怖いもの見たさ、親しみなどが混ざったもので、その価値を形状、色合い、構成などを分析して評価できるものではないようです。世界遺産などの登録においてどのような「物」や「事」が評価されているのか知りませんが、多分かなり主観的で…なものなのではないかと疑っています。「美しい風景」と言われる風景は主観的なものなので、共通認識として多くの人々に認めてもらうためには、宣伝を含めその説得に多くの努力が必要になります。世界遺産への登録を画策している方々の努力は、多分想像を絶する(?)ものかもしれません。(私はそのようなプロジェクトに参加したことがないので、この意見は単なる想像です。ところで「宣伝」=「マインドコントロール」?)要するに、見たい風景≠ 美しい風景ではないことは確かなことだと思います。見たい風景≒ (美しい+珍しい+怖い)風景かも知れません。でも、いくら見てみたい景色であっても、危険な場所に行くことは慎んだ方がよいと思います。レスキュー隊の方々にあまり迷惑を掛けない方が良いように思いますが、でも…。

 なお、私は旅行に行って「美しい景色」と言われている景色を見たとき、「美しさ」よりも「珍しさ」をより強く感じます。でも周囲の方々は「美しい景色だ!」とか「すばらしい景色だ!」などと言って感動を表現している場面に多く遭遇します。このような時、私は「珍しい景色ですね!」と言って周りの方に話しかけることに躊躇します。なぜならば、「変人」と思われるのではないかと恐れるからです。やはり感情は他人と合わせることが必要なのかもしれません。近年のTVやラジオによる時事や事件に対するコメンテーターの方々の感想はみな同じように思われます。炎上を恐れて、一般的な考えと違った意見が言えない世の中(民主主義?)を構築したネットワーク技術は、嘗ての期待とは別の方向に向かっているのかもしれません。(なお、ネットワーク技術開発の当初の目的はアメリカの軍事技術構築にあったようです。)以上は余談でした。


5、風景の形状について

 近年の理論物理学者の世界では、この世は10次元だとか26次元であるかも知れないとの噂があるそうです。でも私は26次元空間の形状を想像することができません。3次元空間の幾何学の問題でも四苦八苦しているのに、26次元が想像できるはずもありません。ただし、その内の4次元(縦、横、高、時間)は我々が認識できるが、残りの22次元はものすごく小さいか、またはものすごく大きいため、われわれには認識できないとのことだそうです。(なんとも都合がよい理屈だ。)ただ、確かになんとか認識できる時限が4次元であることは、私にも理解できます。そして比較的緩やかに変化する風景は短い時間の範囲内では3次元として捕らえることができると思います。セザンヌが、時間を無視して、自然を円柱と円錐と球から成り立っていると認識したことは、ある程度理解できます。でも、私は海岸や日本の田んぼ(人工的ではありますが自然の一つと感じています)の風景の中に二次元的な楕円形や多角形が存在すると感じています。ところで近年(と言っても、かなり前のことですが)自然のフラクタル性ということが話題になりました。一つの図形の中にその相似的図形が存在するようなもので、例えば樹木の幹への枝の付き方が、その枝への葉の付き方に相似しており、更に葉の葉脈の配置が枝への葉の付き方に相似しているといったものです。人体の血管構造、海岸線や宇宙の構造などもその例です。自然はシンプルな構造をしていると言われています。自然を構成する力は現在、重力、電磁力、強い力、弱い力の4つだと言われており、それらの源はたった1つだと考えられています。たった1つの力から成り立つこの世が複雑であるはずがありません…?とは思いますが、現実に自然の形状を見るに、そのようなシンプルなフラクタル性を感じるかといえば、私の感性ではフラクタル性を見出せる景色はかなり少ないです。単純な物でもその組み合わせによって複雑になるということではないかと思います。個々の人の感情は基本的にそれほど複雑ではないにもかかわらず、それらが集まってコミュニケーションをとると、複雑な状況が生じて、多くの問題が生じます。アドラーは人間の悩みはコミュニケーションから生じると言っています。だから私はコンビニのある山奥に一人で住みたいと思っています。もしそのような場所があるならば!

 さて、やはり自然の風景はシンプルではないと思います。これは、私達に多くの楽しみを与え、冒険心を煽ります。だからこれ以上自然をいじめない方が良いと思います。これ以上人間が手を加えると、それこそセザンヌが言っているように、世の中は円柱と円錐と球で構成されてしまいそうな気がします。自然の風景はバラエティーに富み、私達をいつも虜にします。だから私は旅が好きです。でも資金が不足しているのであまり遠くに行くことができません。そのため、楽曲を作成し、資金源にしているのです。皆様、是非ご協力を!


6、風景の色について

 風景に色があるというのは、誠にうれしい限りで、これこそ神に感謝すべきことかもしれません。牛は1色しか見えないとのことで、おそらく白黒写真のような世界を見ているものと思います。色の感覚器官は目にありますが、その色の元は太陽や電球などの光源からの光線(電磁波)です。色彩、明度、彩度などの色に関する要素は、物体の構成元素や形状、また太陽やその他の発光体や電球などの照明器具の光の周波数成分によって変化します。夜景を除き、ほとんどの昼間の風景は、物体による太陽光の反射と吸収によって色が決まります。人の目はRGB(赤緑青)の三原色の周波数を検知することができます。でも、なぜ光の周波数の違いが色として認識されるのでしょうか?しかも、色の違いが景色の良し悪しに重大な影響を及ぼすとなると、RGB(赤緑青)の三原色だけでは不十分なような気もします。人の目がもしRGB以外の周波数帯の光を検知できたら更に世の中が楽しくなるかもしれません。鳥は紫外線を見ることができ、四原色で色を認識するのだそうです。きっと鳥の世界はもっと美しいかもしれません。ところで、色は実際に存在するものなのでしょうか?色は光(電磁波)の周波数の違いです。もちろん、人間にとっては、光の周波数の違いを色として認識しているので、色は実際に存在すると言えるかもしれません。これは他の感覚(聴覚、触覚、味覚など)にも言えることで、感覚器官で得た情報は脳によって情報処理されたもので、物理現象そのものではありません。聴覚は、空気の疎密波を耳の鼓膜で検知し音として認識し、言葉や音楽などを理解します。でもこの言葉や音楽、いや音そのものは本当に実在するのでしょうか?音の実態は空気などの物体の振動です。私達の感覚で得た情報は、実際の物理現象を脳で五感に変換したものです。明かり、色、音、匂い、味などは一部の動物のみに存在し、更にその感覚は各動物に特有の感覚であると思います。そのような五感を「存在」すると考えて良いでしょうか?。色は存在するのでしょうか?もし人が感覚として得たものが存在するとすると、「神」も存在すると考えて良いように思えます。ニーチェは「神は死んだ」と言っていますが、それは間違いでしょうか?話が大分おかしな方向にいってしまいましたが、色が私達に多くの喜びを与えてくれていることは確かなことと思います。人の感覚器官は、人の生命を安全に保つためだけではなく、人が地球に存在することに喜びを感じることができるようにできているのかもしれません。特に女性とデートしている時はそれを強く感じます。ありがたや!ありがたや!(これは風景か絶景か?)


7、風景の香りについて

 風景には香り(匂い)があります。海岸の付近では塩の香りが、また山には木々の香りが存在します。木々の香りは私達の免疫力の向上に役に立つそうです。多くの植物は動物と違い、動くことができないため、毒を持っているのだそうです。森の中で感じる香りの一部はその毒が蒸発したものなのだそうです。森の中を散歩すると、私達の体はその毒に対抗してキラー細胞などが増加し、結果免疫力の向上につながるのだそうです。更に、空気中には多くの雑菌が存在し、落ち葉や昆虫、動物などの死骸が腐敗して匂いを発生します。無論、人によってはそれらの香りや匂いが嫌いな方もいますが、私はそれらの香りによって、山に行った時には山を実感し、海に行った時には海を実感します。ただ、残念なことに、近年の産業の発展に伴い、自動車や発電所などからの排気ガスや噴煙、下水管からの匂いなどが、自然からの香りの邪魔をしているように思います。それでも、日本では最近かなり状況は改善されていると思います。排気ガスはかなり少なくなってきており、嘗てあった光化学スモッグは近頃ほとんど発生していないようです。でも、自然エネルギーの普及はまだ不十分だと思いますし、日本全体としては下水道普及率は78%程度だそうで、特に山岳地帯や海岸付近では60%以下の所もあるようです。また、高山では登山者の糞尿処理やゴミ処理が問題となっている所もあるようで、必ずしも自然そのものの香りを楽しめる状況ではないように思います。もっとも、それも含め「風景の香り」だと言えば、そうかもしれません。なぜならば、人も自然の一部であり、風景の一部だと思うからです。人が特別な存在ではなく、自然の一部であるならば、人が出す(作る)全ての物や事も自然の一部と考えても問題はないのでは?でもやはり、雑踏を離れ、排気ガスの少ない山里や海岸を散歩するとほっとするのは事実です。いつになったら、人工的な匂いが無くなるのでしょうか?ただし、化粧品の香りは別です。私は女性が香水を着けることに反対をしません!


8、風景の音について

 風景には多くの音が存在します。海に行くと、波や風の音が、また山に行くと川の流れや滝の音、更に鳥やカエルなど多くの音が聞こえてきます。そして、同じ風や波の音であっても、それぞれの風景に特徴的な音になっていると感じることもしばしばです。砂浜の波の音と磯場の波の音は別物のように感じます。また風が強い日と凪の日での音の違いは明らかです。特に、夜は音が風景の一部であると感じます。目は人にとって最も優れた感覚器官であるとのことです。そして耳は目に次いで優れた器官だそうです。夜になって、目が十分にその機能を果たせなくなると、耳が活躍しだし、周囲の状況を把握するため昼間より敏感になると思います。蝙蝠やフクロウなど夜に活動する生き物は音で周囲の状況(風景)を把握しています。音は風景の一部であり、私達に何かを語りかけます。音は単なる空気の振動ではありません。どこかで何かが空気に振動を与えているのです。空気は単なる振動の伝達媒体なのです。電話でいえば、空気は電線や光ファイバーに匹敵します。受話器から聞こえる音(音楽や会話)はどこかで何かが音を発生しているのです。私達は、風景から発せられる音がどのような発生源から発せられているかを想像しつつ風景に思いをめぐらせています。時に、侘びやさびを感じ、時に危険を察知し、時に心地よさを感じます。風景に音がなかったら、どれほど味気ないものになるだろうか?音は風景の宝です。よって、音楽は宝です。ぜひ私の楽曲も聴いてあげてください。(ただし、私の楽曲があなたを満足させることできなかったとしても、私はその責任を負いませんので、悪しからず!)ところで、私達は風景の音をどの程度聞くことができるのでしょうか?私は英語があまり得意ではありません。特に聞き取りが苦手です。LとRの区別や、アとエの中間の母音などはよく聞き取れません。これは英語だけに限ったことなのでしょうか?鳥やカエルの声にも聞き取れない音があるのではないか?これは生き物の声のみならず、風や川のせせらぎなど、更に楽器の音にも聞き取れない部分があるのではないか?ストラディバリウスのバイオリンの音と練習用のバイオリンの音を区別できるのか?コケコッコーとコッカドゥウドゥルドゥーのように、言語の異なる人間の間では、鳥のさえずりや音楽が異なって聞き取られているのではないかと疑います。音は耳を通して脳で解釈されます。耳の機能がいくら優秀でも、脳の機能が劣っていれば聞き取り力は低下します。脳が違えば音にも違った解釈を与えるだろうことは明白です。だから私の楽曲はヒットしないのかもしれません。(私の脳の機能が優秀であるとか劣っているとか言っているわけではありません。違いがあると言っているだけです、炎上しないでください!)音に限らず、多くの感覚は、人種は言うまでもなく人それぞれで違っています。私たちはコミュニケーションを行うため、その感覚の違いを(無理やり?)合わせなけらばなりません。これが合わないと、国家間では戦争に、また個人間では虐めや喧嘩に発展します。フランスに行ったら「フランス料理こそ世界一うまい!」といい、ロシアに行ったら「ウオッカこそ世界一の酒だ!」と言わなければ、戦争になります。(ほんとか?)ストラディバリウスのバイオリンの音を聞いたら「さすが、ストラディバリウスのバイオリンの音はすばらしい」と言わなければバカにされます。「正直は敵です。嘘こそ人間の世界で最も重要なコミュニケーションツールです。」と言いたくなることもしばしばです。しかしながら、「嘘も方便」といいます。嘘には「悪意の嘘」と「善意の嘘」があります。重要なことは、その発言がどのような感情に基づいたものなのかです。人のコミュニケーションは個人々々の個性の違いを認識することから始まります。しかしながら、個性の違いを「嘘」によってしか克服できないとは、人間の限界を感じます。ただし、たとえ嘘でも「Sandara botchの楽曲が好きです。」と言っていただけると、やはり悪い気はいたしません。ご購入を検討して頂ければ、なおうれしいです。


9、風景の親近感と疎外感について

 私は嘗て住んでいた所の景色をよく思い出します。同時に、そこに住んでいた友人やご近所さん達の顔が浮かんできます。景色とご近所さんはいつも同時に思い浮かびます。多分そのような時、景色ではなく風景を思い浮かべたことになるのでしょう。そしてなんとなく、それは「私の風景」であり、「私の故郷」と言えるものだと思います。そして、旅行に行った時などで同じような景色を見たとき、そこになんとなく親近感が湧き、懐かしく、また美しく感じます。これは、臆病で、冒険心や革新的な心に欠けているから、といったものではなく、寧ろ冒険する心の土台のようなものを感じます。珍しいものや新しいものに対する憧れは、慣れ親しんだものから生ずるのでしょう。また、転勤などで新たな土地に住むと、当初は疎外感を覚えることがしばしばです。実際には主に、ご近所さんとの関係において疎外感を感じているわけですが、同時にその景観についても疎外感を覚えます。多分、風景は目で見ているのではなく、心で見ているからでしょう。室生犀星は「故郷は遠くにありて思うもの」と、故郷の疎外感を歌っていますが、彼のような境遇は特殊であり、多くの人にとって小学唱歌にあるように、故郷の風景は「忘れがたき故郷」の方が当たっているように思います。風景への親近感や疎外感は、その人の生い立ちや性格に大きく関係すると思います。都会派と田舎派(?)は都会での暮らしを好むとか、田舎暮らしを好むといったこと以上に、それぞれへの親近感や疎外感によって決まるように思います。そして、どれほど憧れた風景であっても、その地で疎外感を感じたとき、風景の中に汚れたものを感じ、醜い風景へと変化していくように思います。再び「美しい風景」とはどんな風景でしょうか?人の感性は理解しがたい存在です。特に女性の…。


10、風景とゴミについて

 ゴミは時とともに増加しています。分別などによって、何とかその処理を簡素化し、またその増加を止めようと努力はされているものの、やはりこれからも増加すると思います。山中や海岸には、ゴミを捨てないように促す立て札が多く散見されます。たまに山中の茂みの中に粗大ゴミがころがっていて、冷蔵庫などからオイルのような汚物が流れているのを見ることがあります。海岸にはペットボトルや空き缶などが流れついていて、その景観を悪化しています。景観が悪化する程度のことならまだ我慢できますが、ペットボトルのようなプラスチックゴミは海岸で劣化して小さな粉体となって魚類や貝類に取り込まれ、やがて人の体内に侵入してくるとのことです。ほとんどの人(私も含め)は見えないものに対してあまり関心を持ちません。魚類や貝類に取り込まれたプラスチックゴミなどまったく気にしません。山中の奥深い茂みの中で何が起ころうと、知ったことではないのです。外国で何が起こっても、自分との直接的な関連がないと思うと、関心は激減します。でも、時に登山中にゴミを目にした瞬間、なんともしれない嫌悪感におそわれます。その原因の一部に私のゴミに関する無関心さがあるにもかかわらず!

 ゴミは誰かが片付けるものではありません。ゴミはどこかの貧乏な国に埋めればいい物ではありません。ゴミはどこかで焼却すればよい物ではありません。ゴミはなるべく出さないようにしなければならない物です。その為にどうすれば良いのでしょう?必要な物を必要な量以上に消費しなければ良いのです。でも多分その考えは間違っているのでしょう。なぜならば、「必要な物」とは何か?「必要な量」とはどの程度か?人の欲に際限はありません。そのことが私達の経済や技術の発展を促しています。よって、私達は今後もゴミや塵、排気ガスなどの不要物(?)と戦っていかなければなりません。他国と喧嘩をしている暇などありません。


11、風景と絵画について

 日本で風景画が描かれるようになったのは、室町時代になってからと言われています。雪舟らが中国から伝来した山水画を描いた頃から、風景を絵にするようになったようです。ただ、この頃は禅宗の影響が強く、また現在のような実存する景色を描いたものではなく、想像上の景観を描いたものであったそうです。実際に存在する風景が描かれるようになったのは江戸時代からで、旅行が流行して、人々が各地の景観を楽しむようになってからだそうです。要するに、地元の見慣れた風景に価値を感じなかった人々が、旅行することによって、これまでと違った景観を見て、その違いに珍しさや驚きを感じ、風景画を描くようになったのではないかと思います。やはり、「珍しさ」と「美しさ」は区別できないかもしれません。さて、絵画が「美」のみを表現するものではないことは自明のことですが、風景画となると、やはりどこかに「美」が表現されている方が良いと思います。ブラックの描いた立体画派(キュビズム)の風景画はあまり好きではありません。風景画は2次元が良いと思います。風景の裏側など見たくありません。私は嫌なものは見ないようにしています。でも、風景の中には、見たくない物や無ければよいと思う物が散在しています。絵はそれらを無視しても何の問題もありません。この点が写真とは違う点です。(ただし、デジカメで撮影した風景写真はパソコンで多少修正することが可能です。)なお、風景画を描く場合、スケッチが基本ですが、写真を手本にすることが有効です。鮮やかな青色を用いて絵を描くことで有名なフェルメールもカメラオブスクラ(針穴からの映像を写す機器)を用いて風景を描いたと言われています。針穴写真の原理はアリストテレスの時代から知られていたようなので、その原理を用いて絵を描きつつ遠近法を確立したとしても不思議ではないと思います。写真が発明された19世紀になると、絵画は写実的な絵から、印象派などのような抽象的な要素を取り入れるようになってきます。絵画がキュビズムなどの抽象性を取り入れる切っ掛けは写真技術の発明にあると感じます。将来、抽象画を超える絵画が生まれるのでしょうか?3次元の次は4次元なので、デュシャンは「階段をおりる裸体No.2」という題で時間を絵画に表現しましたが、残念ながら、私の理解を超えています。4次元空間は3次元空間と違い、時間の次元は現時点より先、つまり未来しか存在しません。過去は単に記憶の中にしか存在しないもので、実存しません。実存しないものが描かれたとしても、理解しがたいことは明白です。過去が記録できると考えるのは間違いです。なぜならば、記録は絵や言葉や文章に頼っており、過去の事実の一部しか記録できていないためです。感情は記録できません。言葉や文章は不完全なものです。だから、交渉では問題の解決が困難であり、最終的には暴力が必要になります。また、脱線してしまいました。失礼しました!欲求不満の現れでした。

なお、私は風景画には印象派のような技法が適していると思いますが、なかなか思ったように描けません。誰かに師事したほうが良いとは思うのですが、それほどの情熱はありません。日曜画家として楽しんで絵を描いているだけで十分です。(本当は、誰かに師事したとしても、これ以上絵が上手になることはないと確信しているから…)


12、風景と写真について

 風景を記憶に留めるためには写真や動画が最適です。また、過去の風景を記録することは、歴史的な意義があります。ただ、写真や動画がどの程度正確に風景を記録できるのかについては一度考察しておく必要があると思います。ご存知のように、カメラで撮影した画面のピントは、カメラから物体までの距離(物体からレンズの中心線に垂直に下ろした点とカメラとの距離)が一定の場所に固定されています。よって、そのピントの合った場所から前後に離れると像はボケてしまいます。一方、人の目は主に網膜上の中心窩が視覚に寄与しているため、かなり狭い範囲しか正確に認識できません。このため、その狭い範囲の像を脳で合成して景色を見ています。所謂、スキャニングを行っています。このため、かなりの範囲で像はボケませんし、また人は(他の生き物も)カメラで撮影した景色とは多少違った景色を見ていることになります。例えば、電柱が林立している道の真ん中に立って、多少カメラを上に傾けて撮影すると、道の両側の電柱はハの字のように道に向かって傾斜して撮影されます。これは、カメラを上に傾けた結果、カメラと電柱の各部からレンズの中心線に垂直に下した点までの距離が異なったために生じたことです。しかしながら、人は狭い範囲の像を脳で合成して見ているため、各電柱は地面に垂直であると認識し、したがって電柱がハの字のように道に向かって傾斜しているかのごとく認識することはありません。もっとも、そのようなカメラの欠点を解消するため、シフトレンズなるものがあると聞きますが、私は所有しておりません。また、写真は画面全体が一定の絞りで撮影されますが、目の瞳は各場所をスキャンニングしつつその点の明暗に対応して瞳孔の開度(絞り)を変化させています。このため、写真に比較して、明るい部分から暗い部分までよく見えることになります。デジカメの画像ではガンマ値を変えて瞳の機能をある程度考慮することができるとは思いますが、瞳そのもののの機能には敵いません。また、三次元を二次元に変換したことによる立体感の欠如はなんともしがたい写真の欠点だと思います。やはり実物の方が痩せて見えます。(余分なこととは存じますが、女性は自分の写真を見てガッカリする必要はありません。)と、ここまでは写真の限界を記述してきましたが、それは実物を正確に写せるかどうかという点に関するもので、近年のデジカメで撮影したデジタル画像には、画像を再加工できるという利点があります。デジカメは過去のフィルムを用いたカメラとは違い、パソコンなどを用いて画像を簡単に編集加工できます。明度、彩度や色相などはもちろんのこと、画像を歪めたり暈したり、種々の加工が可能です。これによって、実際には存在しないような幻想的な景色を創造することが可能になっています。東京の空にオーロラを出現させた画像を作ることなど、お茶の子さいさいです。また近年、立体メガネ(VRゴーグル)を用いた仮想空間が脚光を浴びています。触覚や味のような感覚を必要としない「景色」は、バーチャルな仮想現実であっても十分楽しめるかもしれません。現代のような忙しい社会では、実際にオーロラを見に行ったり、山でご来光を見たりするに十分な時間を得ることは、かなり困難です。仮想現実の世界に遊ぶことは、そのような社会にマッチした楽しみ方かもしれません。

 ただし、まだ立体メガネ(VRゴーグル)での仮想空間を体験したことはありませんので、「食べず嫌い」なのかもしれませんが、私は登山による疲労感無しに山の景色を見ても、あまり感動しないだろうとは思っています。こんなことでは、現代社会に生きていけないと心配になります。どのようにしたら、仮想空間を楽しめる感覚を身につけることができるのか?現在勉強中です。本当に現代は忙しい!いい加減にしてほしいと思っているのは私だけなのか!


13、風景と気候・天候について

 3項で風景の時間変化について記述しましたが、風景は雨や風などの天候によって大きく変化します。雨や風は、生物にとって必要ではありますが、その程度によっては害となる面倒なものでもあります。同じ風景でも雨の日と晴れの日では、まったく違って見えます。台風などによって大きな被害が出た後は、特にその変化の大きさを感じます。日本風景論(志賀重昴著 )でも日本の気候・天候が風景に及ぼす影響について記述されています。ただ、長期間の地球の歴史を鑑みるに、自然は気候や天候、地殻変動などの結果としての存在であり、それが美しく変化したことは、人類にとって歓迎すべきことではありますが、現状の美しさが今後も継続するわけではありません。地表はこれまで氷河期と温暖期が繰り返されてきたことは明白です。今後氷河期が再びおとずれる可能性はかなり高いと思われます。ただし、現在は氷河期が終わって、温暖期に向かっている時期だそうです。そして、排気ガス中の炭酸ガスがそれを加速していると言われています。でも、多くの人々はそのことに関してそれほど真剣に考えているとは思えません。人は(もちろん私も)自分の寿命の範囲を超えて思考をめぐらすことは、かなり困難なことだと思います。毎日の生活に追われている人々にとって、100年後のことを考えて行動することが可能でしょうか?近年の排気ガス対策に対する私達の関心は、光化学スモッグがなくなるかどうかであって、将来の地球温暖化に関心があるわけではありません。中国北京の方々にとっても、スモッグは問題であっても、地球温暖化についてどの程度関心があるか疑問です。現代の科学技術の進歩は、確かに目を見張るものがあります。しかしながら、私達には100年後を考えて自制するほどの余裕はありません。技術の進歩はまだまだです。何時になったら人々は100年後の地球を考えることができるようになるのでしょうか?やはり、人類程度の知能では遠い将来を見据えて活動することはできないのかもしれません。人類程度の文明の寿命はせいぜい数十万年が限界と言っている方がいます。となると、ホモサピエンスが生まれてからすでに10〜20万年が経過しているとのことですので、人類の絶滅はそう遠くないのかも?他の天体の生物(宇宙人)もホモサピエンス程度の知能だとすれば、宇宙人との文明の衝突の確率はかなり小さいと思われるため、宇宙人は決して地球にやって来れないのかもしれません。なんと寂しい宇宙だ!(ただし、ジョージルーカスの映画スターウォーズに登場するダースベーダーのような宇宙人に会わなくて済むので、その点は歓迎すべきかもしれません。)

{追記}風景と季節について

 日本には1年に四つの気候変動が明確に存在し、これを四季と呼んでいます。四季が明確でない地域も存在しますが、天文学的には地域に関係なく四季を定義しているそうです。日本の風景、特にその色彩は季節によって、まるで別物のように変化します。これは動植物の季節変化のみならず、地表に届く太陽光線の波長分布(光質)にも違いが生じるためです。(夏は青色成分のパワーが増加し、冬には赤色成分のパワーが増加します。)でも、朝、昼、晩での 光質の違いは比較的容易に認識できますが、季節による光質 の違いは青空の青さ以外はあまり気になりません。これは目や脳が適当に色を補正してしまうからです。脳は物を概念(意味)として記憶することができます。緑色の木の葉を見た時、その色は緑であるという概念(意味)をも記憶します。このため少々の色の変化は認識することが困難です。人(その他の生物も)は感覚器官から得た情報をそのまま認識する訳ではなく、一度脳で情報処理してから認識します。このため、同じ色や音や香りであっても、人によってその感じ方は大きく異なることとなります。人があなたに「共感を覚えた」と言ったとき、一度は疑ってみては如何?


14、風景と重力(引力)について

 地球が球体であるのは、重力(引力)が作用しているからであることは周知の事実です。また、山が崩れたり、水が海に向かって流れたり、人が大地に立っていられるのも 重力 によるものです。重力 は物体の性質に関わらず、そのすべてに対し質量に比例した力が作用する基本的な力です。にもかかわらず、その正体は依然として不明な点が多く、やっと最近になって重力波を検知することができ、光速で伝搬することが証明されました。でもまだ、重力に引力しかなく斥力がない理由は不明です。ただし、地球上での実生活における重力の作用は十分理解できていると考えて差し支えないものとは思います。しかしながら、地球が水星や金星、火星、木星、土星などの他の惑星と共に安定して太陽の周りを回っていることは知られていますが、それらの惑星からの引力が地球に及ぼす影響についてはあまり関心がなく、一般にはあまり知られていないように思います。近年、都会では美しい星空を見ることができなくなったため、星空観賞ツアーなるものが流行していますが、(一部の天体観測愛好家を除いて)それらの惑星と恒星の違いを意識して星空を観賞することはほとんどないのではないかと思います。太陽系外の恒星と違って、太陽系内の惑星や月の存在は我が地球にとってとても重要です。土星や木星のような巨大惑星がないと地球のような小さな惑星は太陽に飲み込まれてしまいます。太陽系外に地球型惑星を探索する場合、大型惑星の存在する恒星を探すことから着手しているのはそのためです。また、月は十五夜の月を観賞したり、潮の満ち引きにとってのみ重要な存在ではなく、地球内部の温度やマントルや地殻の移動、また最近チバニアンで有名になった地磁気反転などにも影響を及ぼす存在であると思われます。太陽や月の潮汐力による摩擦が、地球内部が高温になっている要因の一つであることが計算によって示されたそうです。(月の中心部は潮汐力による摩擦が原因で数千度になっているかもしれないとのことです。)普段、私達は重力を特別に意識しつつ風景を観賞することはありませんが、大陸移動やその結果としての火山活動の要因の一つが星の間の引力だとすれば、その運行状況(月の満ち欠けや、惑星直列など)にも関心を持つことが必要かもしれません。昨年(2017年)の2月に火星と金星の惑星直列が起こりましたが、その数ヶ月前に、その現象が地震を誘発するとの予測をした科学者がいたとのことです。結果は知りませんが、重力 の地球環境への影響は非常に大きいものです。地球への隕石の衝突も引力によって引き起こされます。これから300年の間は巨大隕石の地球への衝突はないようですが、地球と同じ軌道上にも多くの小天体が太陽の周りを回っています。火星と木星の間の小惑星は非常に多く存在し、稀にその軌道を外れて地球に接近することもあります。今年(2018年)は火星や土星、木星が地球に最接近するとのこと。大地震が起きないことを祈ります。でも、地震や台風などの天災への備えは、常に万全を期すべきであると思います。なぜならば、破壊現象の予測はほとんど不可能だからです。強制力の加わる現象の多くにカオス(ローレンツカオス)が存在します。カオスは対流現象の研究から生まれた理論です。これは、小さな対流条件(例えば加熱温度や対流空間の形状など)の変化によって、その後の対流の状況が大きく変動するという現象です。このため、どのような優秀なコンピューターであっても、長期の天気予報は当たりません。現在気象庁は、初期値をいろいろと変化させて、統計的にもっともらしい値を発表しているとのことですが、それでも当たるのはせいぜい一週間後までです。「備あれば憂い無し」といいます。もし余裕があれば、台風や地震などについては、万全の備えをした方がよいと思います。ただし、福島原発のように、万全の備えには巨額の資金が必要なので、適当なところで…。


15、風景と水について

 地球において水ほど大きな存在はありません。旧ソビエト連邦の宇宙飛行士ガガーリン氏は「地球は青かった」という有名な言葉を残しています。多くの生物の構成分子の中で圧倒的に重要なものは水です。他のたんぱく質や脂肪、ビタミンなどの栄養も、水なしには何の働きもしません。水は地球上で最も優秀な溶媒であり、多くの物質を循環させる役目を担ってます。この水による物質循環作用が、地球上に生物(細菌から動植物まで)の楽園(戦い?)を育んでいます。日本風景論(志賀重昴著 )においても「日本の水蒸気」として水の景観における重要性を指摘しています。でも、日本の川の水は世界でもかなりきれいな方であると思っていましたが、近年そうでもないかも?と思うようになりました。嘗て、多くの河川は蛇行し、その川岸近くにはマコモが繁り、葦原が広がっていました。水生植物による浄化作用のため、川の下流域でもかなりきれいな水が流れていました。戦前は東京の飲み水は井戸水を使用していたとのことです。しかしながら、人工増加に伴う下水処理の遅れや、洪水対策のための川岸のコンクリート壁化で、川から魚類や水生植物が消え、水質はかなり悪化してきました。最近、多摩川に天然のアユが遡上していることが話題となっていますが、東京湾に注ぐその他の多くの河川ではまだそのような兆候は見られません。河川の景観はマコモからコンクリート壁へと変化しました。嘗てのマコモが繁る河川の景観は失われました。かといって、再び河川を蛇行させたり、コンクリート壁を取り払うことはできません。ではどのようにすれば良いのでしょうか?人の景観に対する考え方を変えればよいのです。江戸幕府が登場するまで、東京近辺は葦が繁る原野であったとのことです。江戸時代の人々は利根川や江戸川の河川工事を行い、多くの運河を建設してその景観を変えてきました。その後、明治、大正、昭和、平成と時代の変遷と共に、景観は変化してきました。そして今後も変化し続けることは明らかです。私達は過去を懐かしんでいるだけではいけないと思います。「諸行無常」は単なる哀歓です。変化し、進化し、そして、何時かは宇宙に飛び出していかなければなりません。まだまだ、この世の多くの事物は満足できる状態ではありません。ただし、一般的には、変化(進化?)する過程で稀に悪化(退化?)することもある思いますが、多少の悪化(退化?)には、見ざる・聞かざる・言わざる、としなければならないと思います。でも、私個人としてはそれに耐えられるかどうか解りません。私が生きている間は、なるべくそのままにして頂きたいです。

 さて、風景にとっても重要な水は、生命にとっても大変重要です。しかしながら最近は、水道水への浄化装置の取り付けは当たり前であり、飲料水はペットボトルの天然水しか使用しない家庭がほとんどであるとのこと。井戸水や水道水には何が混入しているのか?塩素?放射性物質?農薬?ゴルフ場の防虫剤?合成洗剤?その他化学薬品?それらはいつか川に注ぐ?それとも地中に浸み込む?それとも途中で浄化される?井戸水や湧き水が飲めない地域が拡大している日本の河川は、やがて汚染水の中でも生きていける水生生物しか存在できないものになるのでしょうか?日本風景論の著者の志賀重昴が木曽川を日本ラインと命名した頃は、ドイツのライン川も多分清流であったのでしょう。しかしながら、現在では両河川とも、かつての面影はなくなっています。水の汚れは世界中で進行中です。でも私はペットボトルの水を飲んでいるので、多分問題ないのでは…。

{追記1}風景と波について

 風景の中の水は一般的に波を伴って存在します。その原因は主に風ですが、船舶の航行や地震など多くの要因によって起こされます。波はその高さに比較して水深が浅い場合と深い場合で波の形に違いを生じます。また、波は干渉によってもその形相を変化させます。そのような波の形状が風景に及ぼす影響は多大で、波を扱った絵画や彫刻が多く存在するのもそのためです。千葉県の寺社には「波の伊八」による波の彫刻を施した欄間が有名で、葛飾北斎の富岳三十六景「神奈川沖浪裏」に大きな影響を与えたとも言われています。伊八は波騒ぐ海面から飛散する波しぶきの中に自然の躍動を感じ、命を実感したのかもしれません。また、波の静かな湖面に映る景色も東山魁夷の「緑響く」など多くの絵画や写真の題材になっており、静寂さを演出しています。水の形態の違いが自然の風景に及ぼす影響は多大であると思います。私も波を美しく描きたい思っていますが、その形態があまりにも多く、四苦八苦してます。でも葛飾北斎の真似はしたくありません。私にも僅かですが、自尊心は残っています。

{追記2}風景と雨について

 考えてみれば雨は摩訶不思議な存在です。天空から水が落下するなんて!その理屈を考えた人は天才です。(20世紀中頃にベルシェロンとフィンデセンによって解明された。)雨は時に恵みとなり、また時に災害を引き起こす邪悪な存在となります。昔の人が、雨を神の仕業と考えたのも納得がいきます。また、日本語の情緒溢れる雨の呼称は日本人独特の感覚から生じたもので、数百にも及ぶそうです。五月雨、夕立、春雨、梅雨、先車雨、酒涙雨、秋りん、時雨…等々、なんとなく雨が降る状態が目に浮かぶようで、一句したためたい気分になります。(ただ、残念ながら私には俳句の心得がほとんどありません。)ゴッホが模写した歌川広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」に描かれた雨の絵は、雨の風景の構成要素としての価値を再認識させてくれました。私は波と同様に雨についても何とか絵にしたと考えていましたが、広重を超えることはできないとあきらめました。できないことは、なるべく早くあきらめることが肝要かと思います。

{追記3}風景と雪や氷について

 多くの物質は気体、液体、固体の3態が存在します。(プラズマを第4の状態ということもある。)水はそれぞれの状態を水蒸気、水、氷または雪と呼んでいます。水は四季の中でその状態を変化させて、風景に趣を与えます。特に水の固体状態は、白川郷の雪景色や袋田の滝の氷漠など、冬らしい景色として多く人に感動を与えています。更に、雪は雪化粧などといい、景色を美しく化粧して趣を添える冬の風物として多くの呼称があり、淡雪、ぼたん雪、粉雪、秋雪、風花、吹雪…等々多種多様の呼称があります。豪雪地帯では、その白さや美しさを鑑賞してばかりではいられないと思いますが、関東に住む私にとって、雪は美しく静かで、やはり風景を化粧するための冬の風物と思います。やはりどのような物や事でも限度があり、その限度を逸脱すると、害となるようですね。ご用心!ご用心!


16、風景と空気について

 酸素ボンベなしに人が住める高さは精々3000〜4000m程度です。地球の直径が役13000kmなので、人は地球の直径の1/3000程度の極表面でしか生存できません。(これは地球の直径を1mとすると僅か0.3mmが人の住める高さです。もちろん人の大きさは黴菌より小さいですが。)地球上の空気(特に我々に必要な酸素)は無限ではありません。炭酸ガスは地球の創世記から存在しましたが、酸素分子は地球誕生から30億年も経ってから、地上や海中の植物の炭酸同化作用によって作られました。植物は我々にとって、食料としてのみならず、酸素製造生物としても重要で、植物が無ければ、我々は生存できません。酸素や炭酸ガスはもちろんのこと、それら以外の窒素やアルゴンも含め、空気は、生命にとって極めて重要な存在であることは明白です。空気は、太陽からの輻射熱が直接地表を加熱することを防止し、対流によって地球全体に分散させます。現在の地球が灼熱の砂漠にならず、極寒の氷河気候にならないのは空気の存在によるといってもよいと思います。(因みに、月の表面は、日中は100℃以上に、また夜は−200℃以下になります。)また、空気は、音を伝え、香りを含み、水蒸気として水を運び、自然の風景に多大な影響を及ぼします。私は空気の存在を風として感じ、風景の一部として味わいます。この私達にとって重要な空気が多くの原因で汚染されてきました。昭和20年代の原水爆実験による放射能汚染や、近年の発電所や自動車からの排気ガスなどの人工的な原因によるものや、黄砂や火山からの噴火ガスなどの自然現象に起因するものなど、空気は常に汚染の脅威に晒されています。多くの氷河期は大きな隕石の衝突による空気の汚染が原因と言われています。嘗て、日本人は水や空気はただ(無料)だと思っていましたが、すでに水は無料ではありません。やがて、空気が無料ではなくなる日が来るのでしょうか?シュワルツェネッガー氏が主演したトータル・リコールでは火星の住人の空気を支配する悪人が登場しましたが、地球上でも同じことが将来出現するかもしれません。やはり、空気や水は自然の状態できれいであることが望ましいと思いますが、現代社会はそれを許さないようです。私は自然の景観が好きです。山の清流や空気によって癒されます。私は、もうこれ以上空気を汚さないようにしたいとは常々思っておりますが、諸般の事情により(?)自動車の運転をまだやめる訳にはいきません。電気が無くても良いとは思っていません。やはり、私は自分勝手な人間だと思います。でも多分あなたも…。

{追記}風景と風について

 空気の風景に及ぼす影響の中で、最も直接的な作用は風だと思います。風は波と違い「作用」としての存在であり、直接見ることはできません。風は皮膚からの感覚や森のざわめき、また水面の波などによってその存在を知ります。風は時にさわやかに、時に冷たく、また時に痛々しく私達の心や体に作用し、風景を観賞する心に感覚的な影響を及ぼします。このため、風には雨と同様に多くの日本語の呼称があてられています。こち、あい、はやて、のわき、おろし、あなじ、こがらし、…等々、季節によっても、また地方によっても多くの呼称が存在します。(また一句詠みたいとは思いますが、勉強不足が祟って…)風は絵や写真ではなかなか表現することが困難なため、風景を観賞する際にはその時の感覚を記憶に留めておく必要があるかもしれません。(ただし感覚記憶は短期記憶であるため記憶に留めておくことはかなり困難かも。)美しい風景と言われている風景を観賞している時、なるべく激しい雨や風には遭いたくないと思うのが一般的だと思いますが、美しさは比較の問題ですので、たまには風雨に晒された景色も観賞しておくことをお勧めします。ただし、台風の時はやめた方がよいかも…。田畑のことが気になるとは思いますが、特に河川の近くには行かないことをお勧めします。


17、風景と植物について

 前項において、植物が酸素分子を製造すると言いましたが、水の電気分解によって酸素分子を製造することはできます。よって、人はいざとなれば、植物なしに地上に酸素を供給できるかもしれません。では、人にとって植物は将来あまり価値ない存在になるのでしょうか?春になって芽を出す草木の新緑は人にとって必要ないのでしょうか?秋の紅葉はもう見なくてもOKでしょうか?花は造花でもOKでしょうか?私は全てNOです。植物のない風景は多分殺風景です。街中には街路樹が必要です。僅かでも、都会には草木のある公園があってほしいです。人は植物の緑に癒される性質があると思います。風景の中の植物は、人に命を感じさせます。特に日本は春に桜の花を見、秋に落葉を見ることができ、季節の変化が諸行無常を感じさせ、人の心を豊かにすると思います。と、これは現在のホモサピエンスの感情であって、将来は変化しているかもしれません。なにせ、現在でも「諸行無常」などといって感傷に浸る人はあまり多くはないと思います。快楽主義者とまでは言いませんが、自然に対する関心は、その脅威が少なくなるにつれて薄れていくのかもしれません。ジュリアナ東京があれば、公園は不要なのかもしれません。オリンピックを観戦でき、野球やサッカーを見てその応援に興じれば満足できるかもしれません。植物園よりパンダに会える動物園の方に興味があるかもしれません。果物や野菜や一部の花には興味はあるかもしれませんが、その他大勢の草木に対するは関心は薄れていると思います。でも、人間と同じで実はその他大勢の方が重要です。岩盤上の土を海に流れないようにしているのはその他大勢の草木です。遠方の山々の緑はその他大勢の草木です。その他大勢に関心が無くなった世界は狂気と化します。(また、本題から逸脱してしまいました。失礼しました!)

 なお、私は動物や植物や細菌などの有機体がお互いに共生関係にあることを知っていますが、その詳細やその必要性についての知識はあまりありません。種の保存を主張している方の意見を聞いていると、「共生関係の破壊の防止」とか「遺伝子の保存」をその理由にしているように思われます。でも将来、それぞれの有機体が共生関係になくても存在できるようになるかもしれません。いや、現在の薬学や医学は、人間のみで生存できる世の中を目標にしているような気がします。人は、人にとって価値のあるものには執着しますが、価値のないものや脅威となるものは排除したがります。人が自然の一部である以上、それは自然の流れにのとったものなのでしょう。したがって、熱帯雨林の植物が減少しても、それほど問題はないのかもしれません。如何でしょうか?


18、風景と動物について

 風景の中に野生動物を見る機会はあまりありませんが、最近、クマや猪が人家近くに出没して問題となっています。ある地方では、マタギ(狩人)を募集しているそうです。動物同士は生存競争の中に存在するので、人が人にとって危険な動物を排除することは仕方ないこととは思います。しかしながら、危険な動物も自然の中では、その構成要素として、存在すべきものであることが往々にしてあります。狼に襲われなくなった鹿が繁殖し、木々を食べて枯らしていることは周知の事実です。だからといって、狼を増やすことなどできません。ではどのようにしたらよいでしょうか?多分なるようになる方が良いと思います。垣根を作ったり、高圧電線を張り巡らすなど、局地的な対応は別にして、日本狼や日本川獺がいなくなったのは自然の成す業だと思います。度々記述しますが、人間は自然の一部です。集合論に従えば、自然の一部が成すことは自然の一部です。だから、成るように成ることが自然だと思います。人間が自然を保護することできるなどど、思い上がるのは止めた方がよいと思います。さて、自然の中で、比較的頻繁に目撃する動物は鳥と魚だと思います。特に鳥は、その囀りや空を飛ぶ姿の自然との調和は、なんとも言えない「自然の楽しさ」を感じます。私も鳥のように自由に空を飛べたらと思います。ドラエモンのタケコプターのようなものがあったら、さぞや面白かろうと思います。(人間を乗せるドローンの開発が進んでいるとのこと、早く完成することを願っています。)なお、山や森を散歩するときはなるべく双眼鏡を持っていくことを推奨します。散歩中に出会う鳥の多くは小鳥のため、遠目には黒っぽく見えますが、双眼鏡(8倍程度がよい)で見ると色鮮やかな羽毛をもった小鳥を多く目にします。また、ラジオからの音楽やニュースを聴きながら散歩するより、小鳥の声を聞いている方が、より癒されると思います。なお、犬と共に散歩する方がいますが、なんとなく犬のために散歩しているように思えてなりません。私は犬を飼っていないので、犬と散歩する方々の気持ちはよくわかりませんが、多分犬を友人や家族のように思って散歩しているのでしょう。私も、妻や友人や子供達と散歩することがありますが、やはり散歩は一人が良いと思います。もちろん、哲学の道を散歩しつつ物理学を発展させた湯川先生のような散歩の仕方をする訳ではありませんが、たまには自然の中で自己を振り返ることも必要ではないかと思います。

 なお、犬やネコはかつて(狭義の)自然の中にいましたが、長い間に人間化(?)してしまいました。特に犬や猫を飼っている方は、彼らを友人や家族のごとく考えているように思います。(でも一部にそうでない方もいるようです。また、犬や猫が人間を仲間と思っているのかは怪しいものだと思いますが。)彼らは、すでに人間と共に生存し、ほぼ共生状態にあると思います。犬やネコは、もはや「人間モドキ」なのです。犬やネコを捨てることは、姥捨山に家族を捨てることと同じです。早く、犬やネコの殺処分ゼロを実現してほしいです。(でもなぜ、人は人以外の家族や友人を必要とするのでしょうか?アドラーが主張するように、人と人とのコミュニケーションがストレスを生むからでしょうか?)

 また、犬やネコ以外の哀願動物を飼うことには慎重になった方が良いでしょう。奈良の鹿(飼っている?)の問題やアライグマなど、当初は問題ないと思われた動物でも、状況によっては問題になることもあり得ます。これ以上人の言うことを聞く動物は必要ないと思います。自然(人間以外)はどこまで人間の言うことを聞くのでしょうか?そのうち自然が癇癪を起して暴走するのではないかと心配です。


19、風景と虫について

 私は、風景の中のトンボや蝶々は、美しく可憐にふるまっている妖精のように感じます。また、山里の小川に群がるホタルを嫌いな方は、ほとんどいないのではないかと思います。虫は花粉を運んだり、動物の死骸や枯れた植物を土に戻す物質循環の一役を担っており、風景の「お手伝いさん」と言えるかもしれません。もちろん、人によっては蝶の鱗粉が気になる方もおられると思いますし、また動植物に害となる虫も数多く存在します。農作物の生育にとって害となる虫は、なるべくいなくなって欲しいと思います。ただ、私達はまだまだ、虫の生態についてそれほど詳しく知っているわけではないと思います。虫の種類は哺乳類や鳥類に比較して、圧倒的に多いのだそうです。最近、コメの害虫であるカメムシの駆除剤を散布した結果、ミツバチが激減したとの報告があるそうです。どこで、なにが、どのように作用し関わってくるのかは、まだまだ理解できていないと思います。でも、蚊やハエの殺虫剤は歓迎です。蚊は最も強力な殺人虫だそうで、なるべく退治したいと思います。私は蚊が大の苦手です。夏に庭木の手入れをしていると、必ずと言っていいほど、私は蚊に刺されます。隣で妻が一緒に作業していても、何故か私のみが刺されます。以前、足の雑菌の種類によって蚊に刺され易い人と、そうでない人がいるようだとの研究をした小学生(中学生?)がTVで紹介されたことがありました。まだ私達に身近な蚊の生態ですら、不明な点が多くあるにも拘わらず、簡単に殺虫剤を撒き散らすのは如何なものかと思います。一般に、殺虫剤や除草剤は、人畜に対し大きな害を与えないもののみが使用されていると思っていますが、やはり気になります。決して行政機関の判断を疑っているわけではありませんが、虫の世界と人の世界の繋がりをどれほど理解できているのか、疑問を持たざるを得ません。また、虫は植物にとっての花粉の運搬者として重要な存在です。植物は動くことができないため、虫や鳥や哺乳類の助けを借りてその分布域を拡大しています。山が緑で覆われているのは、虫たちのお陰です。と言いつつも、蚊には死んで頂きたい!やはり、再度大きな矛盾に突き当たりました。やはり、山が緑で覆われて欲しいと願うならば、たまには蚊に刺されないといけないかもしれません。給料を沢山貰うためには、上司のパワハラやセクハラに耐えなければならないと思います。なんとかならないか!


20、風景と雑菌について

 雑菌は人にとっても植物にとっても不可欠な存在です。植物の根には根圏細菌が生息し、その成長を助けています。また近年、人の腸内フローラ(乳酸菌など)と免疫との関係が話題となっています。皮膚の表面にも多くの雑菌が付着しています。それらの中には皮膚からの病原菌の侵入を防止している菌もあるそうです。雑菌は空気中、水中、土中を問わずありとあらゆる所に存在します。そして多くの生命は雑菌と共生しています。枯れた木々や落ち葉は土中の雑菌によって土に返ります。そして、次の世代の肥やしとなります。動物の死骸や糞なども、雑菌によって土に返ります。風景は雑菌によって再生しているように思います。また、風景の香りの中には、そのような雑菌によって分解した揮発成分や雑菌そのものも含まれています。しかしながら、人は雑菌が好きではありません。腸内フローラに関心はありますが、糞は大嫌いです。これは、人に役立つ菌より、害になる菌の方が多く存在するためだと思います。もちろん、風景の中に直接雑菌を見ることはほとんどありません。雑菌によって腐敗した植物や動物をみたとき、雑菌は嫌なものと感じますが、実は雑菌は嫌なものを分解して有益な土にして、美しい風景を創造する生物であります。人は、乳酸菌や納豆菌などの一部の菌を除いて、雑菌を死滅させることに躍起になっているように感じますが、適当なところでやめた方が良いと思います。どの程度が適当なのかはわかりませんが。なお、人間のような多細胞生物は、アメーバーのような単細胞生物が集合しつつ進化した結果だそうです。もしかしたら、人間は雑菌の集合体かもしれません。大腸菌はその集合体を作る段階で腸に結合できなかったため、外部から侵入したのかもしれません。(冗談!)でも、雑菌の一部は人類にとって重要な存在だと思います。雑菌に感謝しましょう!消毒はやりすぎないように!

 なお、余談ですが糞の成分は雑菌の死骸が2割近くあるそうです。そして糞やおなら(屁)の匂いの成分はその雑菌の死骸ではなく、硫化物やインドールなどの窒化物だそうで、肉やネギ類などの分解物だそうです。もし「おなら(屁)」の匂いに悩まされている方がいたら、なるべく肉やネギ類を食べないようにしたほうがよいと思います。でも多くの人は、ネギを食べないで我慢できても、肉を我慢できる方は少ないように思います。したがって、なるべく人前ではおなら(屁)を我慢して頂くことをお願いいたします。なお、私はなるべくおなら(屁)を我慢しないようにしてます。我慢は健康に良くないと思うからです。よって、私の傍には近づかない方が良いと思います。私は自分勝手な人間ですので!(重ねて申し上げますが、「おなら(屁)」の匂いは雑菌が原因ではありません!)


21、風景と岩石について

 岩や石や土など無機的な風景の構成要素は、時に荒々しく、時に静寂を演出します。しかしながら、日本では草木の無い岩が直接むき出しになっている所は比較的少なく、火山や高山の頂上付近、川や沢や海岸など水辺に沿った場所などに多く存在します。私は海での磯釣りが好きなので、岩場を歩くことがしばしばです。私は関東に住んでいるため、釣りは千葉から伊豆の掛けての磯に多く出漁します。伊豆方面はゴツゴツした安山岩質の岩場が多く、千葉方面は凝灰岩や砂岩が多く、岩の表面がツルツルしてます。千葉の海岸は波や風雨によって岩が崩れているところが散見され、毎年その形状が変化します。そして崩れた岩の中にはイワイソメが住んでいて、嘗てはそのイワイソメを取って釣りのエサにしてました。(現在は禁止されています。)地表に出ている岩は、その性質や場所によって、形が大きく異なり、風景の調味料になっています。日本では古くから、岩に名前をつけたり、天岩戸のごとく神とのつながりを連想する神秘的なものと捉える傾向があります。枯山水が発展したのも多分岩に対するそのような日本人の心が生んだものと思われます。もっとも、岩のみならず、山や木など自然は全て神となることができます。八百万の神がお住まいのパワースポットは日本中至る所に存在します。さて、岩や石が自然の中に姿を現す時、なにか冷たく、荒々しく、かつ神々しく、人に罰を与えるように感じます。嘗て農地の開拓では、石や岩が最もそれを阻害する要因であり、その除去に多くの労力を費やしたようです。神奈川県南足柄市矢倉沢の夕日の滝近くに金太郎岩という大きな石があり、それを取り囲むように畑が作られています。多分その付近は、嘗て岩石がゴロゴロした荒地だったのだろうと思われ、この付近の住人はその岩石の除去に悩まされたのではないかと思います。また、山の岩石は言うまでもなく、多くの川においても、岩はその流れを速めたり、船の航行を阻害したりして、人の自然への進入を阻止しているように感じることもしばしばです。このような無機物の代表である岩石が生命を持つ動植物に対して試練をあたえる存在として立ちはだかるような感覚が、冷たさ、荒々しさ、また神々しさを私達に感じさせるのかもしれません。なお、岩石は自然の風景の中に存在するものが全てではありません、人間の、それも女性のすぐ近くに存在する物(…石)も岩石の一種です。それらの輝く岩石は時折私から多大なる資金を奪っていきます。でも私は女性から嫌われないようにそのための資金を準備しています。多分、その為に仕事をしている男性はかなり多く存在すると思います。ドン…のように!


22、風景と人工物について

 風景の中に人工物を見ない時はほとんどありません。地上に何も無いと思っても、空に飛行機が飛んでいることもしばしばです。少なくとも日本で人工物の無い風景に出会うためには白神山地にでも出かけなければなりません。でも、なんとなく里山の人家や寺社は自然の風景の中に溶け込んでいるような気がします。草木が茂り小山となった古墳など、元の姿を留めなくなった人工物が自然と同化することは理解できますが、山里の茅葺屋根の住居なども自然とマッチングして、自然の一部のような気がするのはなぜでしょう?人工物が自然と溶け込む条件はなんなのでしょうか?色?、形?、大きさ?多分その古さが重要なのだと思います。同じ住居でも、瓦葺屋根の住居より茅葺屋根の住居の方が、なんとなく自然とマッチングしているように見えます。つまり、時間が経過するに従って、それが人工的であるかどうかに関わらず、自然に同化していくのではないかと思います。無論それは人の感覚上でのことで、人工物はそれが分解して土になるまで人工物であることに変わりありません。でもなぜ古いものほど自然を感じるのでしょうか?送電線の鉄塔よりも、寺院の方が自然を演出しているように見えるのはなぜか?結論ではありませんが、自然が多くの時間を掛けて育まれたものであるとの認識が関連しているのではないかと考えています。もちろん、その材質などがプラスチックやコンクリート製ではなく、自然の材質が使用されていることや、形が過去の構築物に似ていることなどが関連しているとは思いますが、過去への郷愁と自然の景観とが感覚の中で交じり合った結果なのかもしれません。また、人工物が何も無い景観より、僅かな人工物が存在する景観の方が、かえって自然を感じることがあります。もしかしたら、私は自然を見ているのではなく、風景の中の人間の営みを見ているのかもしれません。しかも、その人間は自分自身かもしれません。私のどこかに、山里の一軒家が理想の家と考える人物が住んでいるのかもしれません。(ただし、私はジキル博士のような二重人格者ではありません!念のため。)でも自然の中にもコンビニはあってほしいと思ってます。結局、自然はたまに自分を見つめなおす為に存在し、常には都会に住むことしかないのが現代人なのです。よって、今後も地方の人口は減少し、都会は更に膨れ上がると思います。これは決して否定されるべきものではありません。都会に人が集中すれば、地方の自然は改善されると思います。めでたし!めでたし!


23、風景と公園について

 自然は何時の時代でも人によって荒らされています。人は開拓と称して、自然を破壊し続けてきましたが、近年やっと自然や環境の保護の重要性が認識されつつあるように思われます。しかしながら、単に放置しておけば自然が保たれるという訳にはいきません。動植物の密猟や外来種の導入、ゴミの放置など、放っておけば自然はどんどん崩れていきます。何とかしなければ、と思いつつ何ともできないのが現状です。やはり、ある程度の自然破壊は致し方ないのかもしれません。地球の表面積は大きく変化していませんので、そこに住む人間が増加すれば、その分自然が減ることは当然のことです。世界全体で中華人民共和国のように一人っ子政策を取れば別ですが、世界の人口はまだまだ増加しつつある状態にあり、自然が減少することを止めることはできません。また、世界の人や物の移動は今後益々激しくなると思われ、外来種の進入を完全に防止することは不可能だと思います。また、これまでに破壊された自然をもとに戻すことも非常に困難だと思います。虫の生態ですら不明な点が多いのに、自然の全体を理解していない人間が自然を構築することなどできるわけがありません。でも安心してください。人は全くの自然状態が良いとは思っていないようです。なぜならば、人は公園が大好きです。日比谷公園や桂離宮に行けば、自然に触れたように思います。富士山のような観光地の山に登れば結構満足して登山をしたような気分になります。決して植村直美氏のような冒険を望んではいません。枯山水でも満足です。人に害を及ぼす自然は必要ありません。日本には自然を保護のために「自然環境保全法」なる法律がありますが、この法律で保護されている地域(白神山地など)は日本の総面積の僅か0.05%程度です。これに対し、「自然公園法」で指定されている公園は日本の面積の14%程度あり、原生林などの手付かずの自然を保護したい地域に比較し、300倍近くあります。人はやはり自然をそのままにしていたくないのです。でも安心してください。人は自然の一部です。よって人のしたことも、自然の一部です。よって現在の地球は自然のままです。


24、風景と感覚について

 人は自己の外界のみならず、自己自身をも、自己の感覚器官で認識します。筋紡錘などを除いて、ほとんどの感覚は五感から得られます。この重要な5つの感覚はどの程度正確に外界や、自己を知覚することができるのでしょうか?風景を見る目、香りを感じる鼻、音を聞く耳は十分精確に風景を感じているのでしょうか?以前記述したように、風景を客観的に評価することはできないため、良い風景を定義することはできないと思いますが、より感度のよい感覚器官があればより美しい風景が見られるのではないかと思います。人の目はトビやハヤブサより優れているとは思いません。また、鼻は犬より優れているとは思いません。もし、私に、鳥のような4原色の目があり、犬のような鼻をもっていたなら、きっと違った風景を感じていたと思います。なぜ、人は鳥のような目を持たなかったのでしょうか?生命維持のための必要条件を満たしているから?十分条件は必要ない?人よりも優れた感覚を持った動物がいると、なぜそのような感覚を人が持てなかったのかと疑問に思います。そして、そのような感覚があったら、より美しい風景を見ることができたかもしれないと思ってしまいます。(もちろん、見え過ぎて、粗が目立ってしまうかもしれませんが。)ただ、ない感覚を望んでも仕方ないので、現在持っている感覚を少しでも優れたものにすることは可能なのかもしれないと思います。人はその顔が違うように、感覚器官の感度も違っていると思います。よって、訓練によって感覚器官の感度を向上することが必要かもしれません。絵の好きな方は、より多くの絵を鑑賞することによって、絵を鑑賞することに楽しみを感じるようにしたほうが良いでしょう。多くの種類のワインを飲むことにより、ワインのおいしさを楽しむことができるようにしましょう。音楽は聴けば聞くほど、その楽しみを理解できるようになります。(よって、私の楽曲も聞いてください!)人の感覚は磨けば磨くほど鋭くなる(?)のではないかと思います。風景をより楽しむためには、五感を磨くことに努力すべきだと思います。1に努力、2に努力、3、4がなくて、5に努力!ほんにこの世は忙しい!でも感覚は努力によって本当に鋭敏になるのでしょうか?もしなったとして、それが何の役にたつのでしょうか?努力した人にしか解からない感覚は、その他の多くの人にはあまり意味がありません。なぜならば、人間にとってもっとも大事なことは「コミュニケーション能力」だからです。ホントかどうか知りませんが、白瀬中尉が南極大陸の探検のための資金を政府に依頼した時、その探検隊の会長であった早稲田大学総長の大隈重信は「南極はさぞ暑いのであろう」と言ったとのことです。電気会社の社長になるために電気の知識はあまり必要ありません。部下との「コミュニケーション能力」が必要です。研ぎ澄まされた感覚は、下手をすれば奇人扱いされます。一つのことにこだわることは、止めたほうがよいでしょう。でも私は…。

 ところで、私たちは本当にこの宇宙を正確に検知しているのでしょうか?自然は人が思っているような姿かたちをしているのでしょうか?ダークマターはなぜ見えないのでしょうか?映画トータル・リコールにあるように、私たちは単に脳が作ったバーチャル空間に生きているだけなのでしょうか?でも私は文句を言いません。私は今の感覚が好きです。特に、女性とデートしているときは…。


25、風景の未来について

 人はこれまで自然に適用するように進化してきましたが、数万年前から自然を人に適合するように変化(進化?)させてきました。世界的には、このような自然破壊の傾向は今後も続くものと思われますが、日本などにおいては人口の都市への集中などにより、返って自然が元に戻りつつあるように思われます。これは、人口減少や高齢化の結果だけではなく、効率化の影響もかなり大きいように思います。都市の住居は高層ビル化して、より多くの人が狭い場所に居住し活動できるようになってます。交通機関も発達し人や物の移動も効率化してきました。私は都会があまり好きではありませんが、他人が都会に住むことに反対はしません。いや、もし都会が好きならば、是非都会に移住して頂きたいと思います。都市に限らず、農村や漁村も今後効率化が進めば、それに反比例して、自然は回復していくように思われます。いや、そのように効率化を進めるべきであると思います。そうすれば、自然はそれほど容易には破壊されないだろうと思います。また、日本の人口は減少傾向にありますが、世界の人口は増加しつつあるようです。しかしながら、ネズミのように繁殖力の旺盛な動物は大発生と減少を繰り返して(集団自殺ではない!)その数を調節するそうです。人も年間を通じて繁殖をする動物なので、繁殖力旺盛な生物と考えてよいと思います。よって何れ、人口増加は止まり、減少方向に向かうと思われます。風景の荒廃はあまり心配する必要はないと思われますが、如何でしょうか?13項で記述したごとく、人はその寿命の範囲を超えて真剣に思考を巡らすことはできないようですが、あまり心配する必要がないかもしれません。(私などは1年先のことすら十分に検討していません。取り合えず、1ヶ月先、いや1週間先まで予定が立っていれば満足しています。)自然は自己回復機能をもっているのだと思います。ただ、人は既に地球上のほとんどの場所を探検調査し、その珍しさを日常的なものに変えてきました。以前にも記述しましたように、珍しさがなくなると、美しさも薄れてきます。感動が減ってきます。NHKの大河ドラマや朝ドラで紹介された場所は一時的に多くの人が訪れますが、1年もすると閑散とした状態になります。近年、SNSによって、これまで大々的に紹介されていなかった名所が次々と出現していますが、それも減少傾向にあります。たとえ自然が回復したとしても、探検し尽された地球に、以前のような感動を生む場所は、もはやなくなっているのかもしれません。音楽や絵画は前衛化して、なんとかその興味を繋いできましたが、風景は多分前衛化できないでしょう。(USJやディズニーランドは風景前衛化の前兆か?)では興味を引く風景は今後どのように変化していくのでしょうか?ある旅人が言っていました。人が旅をするのは、何も珍しかったり、美しかったりする場所に行くことが目的ではなく、日常の煩わしさからの、一時避難のためであると。もちろん、その避難場所が美しかったり、珍しかったりすれば、そのストレス発散のための効用は、より大きくなると思いますが、だからといって、特別な光景がなければならない訳ではないかもしれません。時々「別荘」に行くだけでも十分なのかもしれません。ただ、以前にも記述しましたが、人は風景に対し「親近感」も求めていますが、やはり「珍しさ」や「美しさ」も求めています。どちらの感情が作用するかは、状況によって変化します。やはり、人にとってそのどちらの風景も必要なのだと思います。常に変わらない親近感のある風景と、珍しく見たこともないような風景の両方が必要なのです。なんともメンドクサイことではありますが、それが人間なのです。ホモサピエンスはコミュニケーションによって大集団を作り、生存競争に勝ってきました。しかしながら、その結果、ホモサピエンス同士の抗争も生まれました。矛盾した行動は、まだホモサピエンスが完成した生物ではない証拠だと思います。やはり、風景の前衛化が必要かもしれません。もちろん、私には風景の前衛化に関する何のアイデアも持ち合わせていませんが、生物は今後も進化するという仮定が成立するならば、いずれXメンのような新人類が生まれると思います。よって地球の風景は彼らに委ねることが賢明かもしれません。きっと彼らは地球に留まることはないとはないと思います。地球の風景のことなど気にしないかもしれません。きっと、火星の風景を楽しんでいるのではないかと想像します。ただ、私は彼らが、宇宙に進出した際、ダースベーダーやエイリアンやプレデターに会わないことを願っています。