Sandara Botchの虚実雑感 本文へジャンプ

1、はじめに

 数学の2次方程式において虚数解なる解が存在します。この虚数解は本当に解なのでしょうか?虚数値を実空間で表すことができないので、虚数解は解ではないとしても良いようにも思えます。英語では虚数部分を imaginary part と言い、実数部分を real part と言います。確かに虚数は数学的には存在するが実空間には存在しない想像的な数値であり、虚数解は解ではなく単なる数学計算上便利な架空解と思えます。しかしながら、実空間に存在しないからといって単純に否定していいものかどうか、なにやらもやもやしたものが残ります。例えば量子力学ではシュレーディンガーの方程式に虚数が使用され電子の動きを記述できます。またホーキング氏は虚数世界の存在を認めれば宇宙の始まりに於ける無限大の問題を解決できると言っているため、自然界にも虚が存在しないとは言えないかもしれません。虚数とは何か?実は私たちの暮らしの中にも多くの「虚」が存在しています。たとえば「価値」です。価値は人の心(脳)の中に存在し、具体的に実空間には存在しません。そのためその取り扱いはきわめて困難です。また「能力」も虚的存在です。ある能力によって創造された実体は、実在するため実的存在ですが、能力自体はその創造された実体からしか推定することができず、能力そのものは虚であり、実体として表すことはできません。しかしながら何とかその価値や能力を実空間に表そうとして、例えば「価値」は「通貨」によって評価しようとし、「能力」は「テスト」(IQなど)によって評価しようとしています。虚的存在をなんとか実的存在にして扱いやすいように努力していますが、多分虚的存在を正確に実的にすることはできないことと思います。よって虚的な存在の扱いはきわめて困難です。さらに存在が虚的なのか実的なのかが不明確な事象が数多く存在するためそのことに人は戸惑っているのではないかとも思います。そこで存在が虚的なのかと実的なのかを明確にすることが、虚の取り扱いを多少容易にするのではないかと思い本章を記述しました。  さて、ここでもう少し「虚」と「実」の意味を明確にしたいと思います。「虚」の反意語は「実」です。虚には多くの意味がありますが、ここでは「imaginary≒架空や空想上の事物事象で実在しない事物事象」という意味で使用しています。また実はその反対に「real≒実在する事物事象」とします。ただ実際の事物事象が虚なのか実なのか区別しようとすると結構めんどくさいことに気が付きます。例えば国家は虚でしょうか、それとも実でしょうか?確かに国家は存在していて、実のように思えます。しかしながら、国家は人が勝手に設定したもので、国家の設定には明確な決まりがありません。現存の国家はある時点で国家と決めた土地の境界とそこに住む人々を国家としただけで理論的な根拠はかなり薄いと思います。ウクライナの問題も、国家が人の考え方によって変化してしまう例です。では国家や国民は虚でしょうか?日本や日本国民は虚でしょうか?なんとなく変です。では家族という存在は実でしょうか虚でしょうか?家族、特に親子は明らかに実です。家族は遺伝的な関係によって成り立った小集団であり、想像上の集団ではありません。また多分親戚や小さな村では血縁的な関係が想定され、想像上の集団では無いと考えられます。しかしながらこれが国家などの大集団になると血縁関係はかなり希薄となり、そのような集団は想像上のものと思われます。本来国のようは集団は農耕など集団で作業した方が都合がよいことに始まったと考えられています。家族のような小さな実集団がやがて国家のような虚集団に発展したとすると、集団の規模が国レベルの大集団になるまでの中間的な規模のどこかで実集団が虚集団になったと考えられます。この虚と実の問題が国家間の問題を複雑にしているように思えます。ここに人が虚と実の区別が不得意とする証拠がみえます。さらに虚実の区別が困難になる事象として、時間的な虚実の問題が存在します。これまでの歴史において虚と考えられていた事物事象が実際に存在することになった例は多数存在します。レオナルドダヴィンチはヘリコプターの図を描いたとのことですが、その時点ではそのヘリコプターは虚です。しかしながら現在ヘリコプターは実です。よって本章では現時点での虚実の判断とします。すなわちここでいう実とは、カントやヘーゲル等の形而上学的存在論で論じられる「存在」とはちょっと違います。例えば、テレビは実在する物であり、またそれを観る行為も実在するものですが、その放映内容は実の場合もあるし虚の場合もあります。また歴史などは今日それを実際に観察することはできません。従って歴史のある部分は実でありまたある部分は虚であるかもしれません。では通貨は虚か実か?通貨そのものはコインや紙幣の形で実際に存在するため実ですが、その価値は人と人との間の約束事であり想像上のものなので虚と考えられます。つまりここでいう実は、その存在が人の感覚や思考によって変化しないもので客観的に存在する事物事象です。ただし、虚と実の区別はそれほど簡単ではなく、また空間的にも時間的にも変化します。また私を含め人は客観的に事物を観たり判断したりすることを得意としません。よって時に人は虚を実と勘違いし、また実を虚と勘違いします。ではなぜそんなめんどくさいことを私は議論しようとしているのか。それは近年「虚」が増大し「実」が軽んじられているのではないかと感じるからです。アルビン・トフラーは「第三の波」において21世紀は情報化が重要な技術になると言っていましたが、その予測は当たっていました。情報が溢れ、しかもその虚実は明確ではありません。そしてその原因は情報は本来虚実混交だからです。情報のほとんどは実際の事物の一部を言語や映像によってその断片を切り取ったものです。そして、一般的には現時点から見れば過去のものです。よってその一部には本質的に虚が含まれています。更に虚が増加している原因として、実に関してはなにやら目の見えない限界が見えつつあるように思えます。スポーツにおいては、例えば100m競走の限界などです。多分9秒以下にはならないのではないか。量子コンピュータは本当に実用化できるのか。核融合などの新エネルギーは可能かなど、多くの実に限界が見え、虚にしか興味を持てなくなってなっているのかもしれません。実の中に希望を見出さなくなっているようにも思えます。もしかしたらこれが戦争を生んでいるのかもしれません。ただ虚は実にとって重要な存在です。虚と実は車の両輪のように虚が実を生み実が虚を生んできました。よってやがてまた実の時代が来るかもしれませんので、このような議論は無駄かもしれません。よってもしそのようにお考えでしたらこれ以上読まないでください。  ただ、虚が増大し実とかけ離れた所に行ってしまったら、人は仮想世界にのめり込んで実世界を顧みなくなり、やがて…。


2、虚と実について

 心と物のような二つの事象から根本的な原理を見出そうとする試みは古くから行われています。これを二元論と言います。陰陽思想やキリスト教の善悪論なども二元論と考えられます。また一元論も古くから存在し、大乗仏教では「存在」が八つの識によって成り立っているという「唯識思想」がその教義の基本であるとのことです。般若心経における「色即是空 空即是色」(有るということは無いということである。従って無いということは有るということである。)はその思想に基づいた見識とのことです。更に近代では養老孟司氏の「唯脳論」や岸田秀氏の「唯幻論」なども同様の考え方から派生したようにも思えます。また唯物思考も一元論の一つです。しかしながら心と物や善悪など、その区別はそれほど簡単ではないように思えます。ヘーゲルは唯心と唯物のどちらか一方で存在を議論することはできないと言っています。両者は密接に関連しその堺にグレーゾーンが存在します。そこで私は前章に記述したとおり、本章では存在を「虚」と「実」の二元論的に捉えてみたいと思います。ここで虚と実の内容をもう少し広げて「虚=4次元的事物事象を伴わないもの」、また「実=4次元的事物事象を伴うもの」とします。よって一般的な社会現象は「存在=虚実混交」と解釈します。また、虚はおもに人によって生みだされた観念や感覚、およびその表現形式を含み、実は実際に存在する宇宙や自然、また人によって創造された建築物や公園、畑、機器などの物体や、過去に存在した物や災害や事件などの過去の出来事事象を含みます。(なお、出来事の存在を時間を含んで議論する場合、全て過去の存在です。人は事物を認識するために少なくとも0.2秒程度必要とします。従って「存在した=存在」とします。)  ここで、思考の虚実についてもう少し考察したいと思います。人が思考を巡らせる行為そのものは実ですが、その内容には実と虚が混じっています。人が実(農作物や工作物など)を作るために作業をしている時の作業に関する思考は実ですが、農作物の新規な育成方法に関する思考は虚です。つまり人の動作およびその動作のための思考は実ですが動作以外の思考は虚です。動作のための思考は実のための思考であり、動作とそのための思考はほぼ同時進行します。よって動作のための思考は虚とは考えずらいと思います。少々わかりずらいかもしれませんが、要するに虚とは imaginaryであり、実は realです。人の虚実については再度考察したいと思います。


3、自然界の法則の虚実について

 自然界には法則や原理が存在します。相対性の原理、量子論における法則など多くの法則や原理が存在し、その多くは数学的に表現されています。これらの自然界の原理や法則は人が考えたものではなく、人が発見したものであり、実であることは間違いありません。ただし、今私たちが信じている原理や法則が本物かどうかはわかりません。なぜならば、ニュートンの古典力学は相対性理論や量子力学によって修正されました。よって今後相対性理論や量子力学が他の新しい理論によって修正されないとは言い切れません。しかしながら、例え修正されたとしても現時点で正しいと思われたものは実です。嘗て地動説が信じられる以前は天動説が信じられていました。ではその時点で天動説は虚かといえば、それは間違いです。現時点で実と考えられるものが実であり、現時点で虚と考えられるものが虚です。従って虚実は固定されたものではなく、時と共に変化します。これが自然法則に限ったものではありません。全ての虚実は時と共に変化します。従って現時点での虚実を明確に認識することが重要です。これは虚と実のどちらかが重要であるからではありません。どちらも同じ程度に重要なことです。例えば温暖化の問題において炭酸ガスの排出によるものなのか他に原因はないかについて、真鍋淑郎先生は雲の温暖化に対する影響がわかっていないと言っています。正確に将来の気温を推定するには全世界的なリモート・センシングが重要と言っています。今後温暖化の主要因が炭酸ガスではないという結果にならないとも限りません。しかしながら少なくとも現時点では炭酸ガスが大きな影響をもたらすであろうと言われている以上、そのことを実と考え注視すべきと考えます。今後の研究結果を待っていては手遅れになるかもしれませんので。しかしながら将来それが虚となるかもしれません。その時は考え方を変更することに躊躇してはいけません。私たちは自然法則を知り尽くしているわけではありません。今後も新発見が続くと思われます。常に自然界を観測しつつ新たな観測結果を知識として組み入れ、その知識から仮説(虚)を創造し、法則や原理(実)を見出すことが必要と考えます。


4、人の虚実について

 さてここでもう一度、人の虚実について検討すべきかもしれません。人体としての人類は実的存在であるように思えます。しかしながら、人類も含め少なくとも動物の細胞は数年程度でほとんど入れ替わります。外見上は変化があまりありませんが(多少は痩せたり太ったりします)、人体を構成する原子や分子およびそれによって構成されている細胞はほとんど入れ替わっています。従って理屈を言えば、数年前の人と現在の人は同一人物であるとは言えないかもしれません。しかしながら入れ替わった細胞を構成する原子の性質は以前と同じです。従って細胞が入れ替わっても、感覚や記憶などの人の機能は変化しないと考えられます。つまり人はそれを構成する物質が常に入れ替わっており、見た目には同一と思われる人体は物質的には流動状態にあり実的存在と簡単に結論付けることできません。人はその機能が実であるということです。よって考え方によっては人は実的存在ではなく虚的存在と言えるかもしれませんが、一応ここでは人体そのものは実とします。人の脳の活動自体は実ですがその結果として生じた思考や感情などは虚が多く存在します。人は自分自身の存在のすべてが実であると考えがちです。しかしながらもしかしたら虚のなかにどっぷり浸かっているのかもしれません。特に意識の世界は限りなく虚に近く、多くの時間を虚空間の事物事象のために割いています。人の思考の実の部分は無意識的で本能的なものだけかもしれません。唯脳論や唯幻論はそのことを言っているようにも思えます。人の意識は厳しい現実の状況の中で、より楽しい状況を常に探しています。悲しい世界では人は生きていけないため、人は多くの時間を楽しい世界で過ごせるように常に意識しています。その楽しい世界の大部分が虚空間なのです。通常の状態(戦争や近親者の死などが生じてない状態)においては虚空間は実空間よりも住み心地が良いようになっています。実空間すなわち現実は常に人々にストレスを与えているように思えます。これに対し虚空間すなわち空想空間は自分の好みに合った空間に比較的自由にコントロールできます。このことが人を現実から遠ざけているように思えます。但しこのことは決してが悪いことではありません。人は虚空間を創造することによって生存する意義や喜びを見出していると思われます。実空間の問題を虚空間で処理し実空間に還元することを創造性と定義できるかもしれません。ただし、虚のみに頼ることは禁物と思います


5、人の虚の起源について

 虚はいつから人に住みついたのでしょうか。ユバル・ノア・ハラリ氏がサピエンス全史で述べているように約7万年前に起こった認知革命による虚構がその起源と思われます。そしてより正確には、人が神の存在に気付いた時ではないかと思います。信仰の起源は人類が類人猿から進化した頃からと言われていますが、おそらくその頃に虚が人の中に住み始めたと考えて良いのではないでしょうか。人は天変地異など人知を超える事物に遭遇して神の存在に気付き、やがて宗教や占いなどを行ってその人知を超える事物と現実との間を連結することによって精神の安定を図ったと考えられます。その後、農耕などの発明によってより豊かな生活が始まり私有財産が出現するとその管理のため文字が発明されました。最初の文字は数字であり、シュメール人によって発明されたとのことです。数字は家畜などの所有財産を測るための記号でしたが、やがて心(虚)を表現するための文字となりました。文字は「虚」を具現化(実)するための重要な道具の一つであり今後も膨大に増殖しつつ発展していくと思われます。よって文字のそのものは実ですがその内容は虚実混交です。文字の使用は人と他の生物との間で最も異なる存在です。言語は他の生物にも存在すると言われていますが、文字は他の生物には存在しません。そしてこの文字が虚の存在を具現化し、人々の中で虚の存在を強大化したと思われます。この強大化した虚は実を生むだけでなく虚を育成して更に強大化し、人々を実から引き離しつつあるのではないかと思われます。そしてこの虚の強大化が戦争や人口減少、怪しい宗教に耽る人々や引き籠りの増加をもたらしているのではないかと考えます。ただ虚は文字や言語として表されたものが全てではありません。むしろ文字以外の見えない部分こそ本当の虚なのです。よってその取り扱いはきわめて困難であり、人類最大の問題であり人類最大の武器でもあります。人の本質は虚にあるかもしれません。


6、宗教の虚実について

 前項に記述したように、宗教は虚の起源と思われます。ただ、宗教は本当に虚でしょうか?新渡戸稲造はドイツ人から「日本人は宗教教育が成されてないようだがどのようにして倫理教育しているのか?」と言われて武士道という本を執筆したようですが(岡倉天心の茶の本も同様の動機によるようです)、一般的に西欧では宗教教育=倫理教育と捉えているようです。要するに宗教(この場合はキリスト教)を信じない人は倫理感の無い人と捉えられているようです。(この感覚は結構きついようで、C・Wニコル氏は日本に移住した理由の一つに「宗教教育からの脱出」と言っているようです。)よって宗教は人格を形成するためのものであり、人類にとって重要なものであると(いまだに)考えられています。しかしながら宗教が虚だとするとそれによって得られた倫理感も虚ということになります。それが仏教であれ、キリスト教であれ、得られた倫理感は人の中に存在しますがその基は虚です。従って宗教に基づく倫理感はある意味虚的存在でありイメージの世界に存在するものです。よってそのような倫理感は宗教が違えば当然異なるし、また神の存在を疑う人が増えると、倫理感のない人が増加することになります。このことはかなり大きな問題です。神の存在を信じている人は現在どの程度いるのでしょうか。多分時代と共に減少していると思われます。(日本でも18世紀中頃には山片蟠桃が夢の代という著書において無神論を展開しています。)そしてそれがロシアのウクライナ侵攻の原因かもしれません。日本においても既に武士道精神などはほとんど存在しません。茶の湯に興味をもっている人も減少してます。しかし、C・Wニコル氏に倫理感が無いかと言えば全くその逆だと思います。(ただし、私はC・Wニコル氏とは面識がありませんので、彼の本からの想像です。)私は倫理感は神から得られるものではなく自然から得られるものと思っています。自然界の生存競争を観て、人は争いのない世界を夢見ます。競争甚だしい都会を逃れて自然に触れ美しいものを感じたとき、倫理感が芽生えるものと思います。自然こそが真の人類の創造主であることは間違いのないことです。そして日本人は自然の中から八百万の神を見出し、詫び寂びを見出し、武士道の精神を見出したのではないでしょうか。私は「八百万の神=自然」と捉えています。自然から生じた人は本能的に自然の中に神を見出したものと思います。(なお、自然の中に人も含まれます。なぜならば人も自然の一部です。自然から生じた生物です。この点については別途議論したいと考えます。)倫理感に宗教が必要と考えるのは聊か問題があると思います。嘗て宗教が実であると考えられていた時代には、宗教によって創造された倫理感は実であったと思われます。しかし宗教の基である神の存在が疑われだした現在では宗教の世界は虚となり倫理感も虚と解釈されるようにったと思われます。これに対し自然(実)から生じた倫理感は実に基づいた虚です。倫理感の基盤が実であることは、いつでも倫理感覚の状態を自然に照らして確認修正できるという意味で重要なことと考えます。


7、善と悪の虚実について

 善も悪も虚の範疇に入ります。ここで善悪は正義不義とはチョッと違います。善悪は道徳的なものですが正義不義は法的な捉え方においての価値判断です。従って、時によって人は自分の行為を善悪で判断すべきか正義不義で判断するべきかに悩みます。特に兵士が戦争においてこの問題に悩みPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症することが指摘されています。ただ宗教の虚実について記述したごとく、道徳が宗教に依存する場合は善悪は宗教によって異なることになり、また正義不義は各国の法律すなわち政治システムによって異なることになります。つまり善、悪、正義、不義には世界的に確立された定義が存在しないばかりか、人によってその定義が異なることになります。そしていずれもが虚です。そして虚は環境によっても時間的にも変化します。かつて朝敵であり悪とされた足利尊氏は現代では悪とは思われていません。ここに善悪や正義不義の基本的な問題があります。人の行為において善悪や正義不義は現代においてかならずしも適切な評価判断項目ではないかもしれません。このことは道徳が不要であるということではありません。人の行為のすべてにおいて法によって正義不義を判断すれば事足りる訳ではありません。ただ昨今の人々の心に道徳心や倫理感がどのように養われているかについては、甚だ疑わしいと思われます。現在多くの国では三権分立(立法、司法、行政)によって社会が成り立っています。このことは社会が道徳や倫理ではなく、法すなわち正義不義によって成り立っているということです。もちろん法にはその国の道徳感や倫理感が全く考慮されてない訳ではありません。ただ道徳や倫理は正義や不義に比較し軽視される傾向にあると思われます。要するに、すべてを法によって白黒つけようとしています。できれば道徳感や倫理感を重視した法の成立が望ましいとは思いますが、恐らくこれ以上に道徳や倫理を取り込んだ法を作ることはかなり困難なことと思います。なぜならば、前記のごとく善悪と正義不義には相容れない事象領域(例えば戦争など)が存在するからです。できれば理論的観点からの道徳や倫理に関する規範が作られることが望ましいとは思いますが、道徳にしても倫理にしてもいずれも人の心に関するものであり、本来理論的に扱える問題ではないと思います。よって哲学者などがいくら努力しても、これらの理論的に確立された規範を作ることはかなり困難なようにも思います。ただ孔子に始まる儒教や釈迦の教えに基づく原始仏教にはそのような努力がうかがえます。いつの日にか理論的に確立された道徳規範や倫理規範を作成することができる偉大な哲学者が生まれることを期待します。


8、言語の虚実について

 前記のごとく言語そのものは記号という意味で実です。しかしながらその言語が表す内容は虚実混交です。言語は記号であり、文字はその具現化された実です。また会話は空気振動(音)であり、音は実です。多くの動物が発する鳴き声も実です。しかしながらその内容は虚実混交です(多分人以外の動物も?)。言語の内容は実を表示する場合もあり虚の場合もあります。言葉は単に他の人とのコミュニケーションをとるための道具であるだけでなく、個人の意思や思想を構成するものであり、従って個人の人格を特徴付けるものです。しかし、言語のみが個人の思考を生みだすわけではなく、味や匂いなどの感覚や怒りや悲しみなどの感情など、言語では十分に表現できない事項も数多くあります。言語は人の思考や感情の一部を表現することはできても、その多くの部分は言語では表現できません。(だから殴り合いが起きるのです。)しかしながら言語は虚を生みだすことにおいてもっとも重要な働きをします。感覚を無視する訳ではありませんが言語がなければ虚は無かったと言っても良いかもしれません。特に言語のコミュニケーション機能は国や同胞などの概念を創造しました。また思想の根幹はやはり言語に依存します。言語は虚と実との間の調和を図り、それらを一体として私たちにインプットします。しかしながらここに多くの問題が生じます。虚と実を同時に受け入れても通常はそれを区別する必要はないと思われます。しかしながら何らかの不都合な事象(例えば詐欺や戦争など)に遭遇した場合、それが実なのか虚なのかを見分けることが重要です。特に戦争などの政治や経済に端を発したものはその原因や結果において虚実が入り乱れ、言語情報のみでは実体を把握できない場合が散見されます。言語が虚実混交であることには普段から注意が必要です。いやむしろ言語は虚のための道具であるかもしれません。言語がなければ虚は存在しなかったかもしれません。


9、文学の虚実について

 文学の多くは虚です。ただし、ドキュメンタリー文学も虚かと言えば、そうでもないかもしれません。なぜならば、そこには実の一部が表現されているからです。ただ、ドキュメンタリーと言ってもその扱っている部分に人の主観がないかと言えばそれは嘘になるでしょう。よって虚とも実とも言い難いかもしれません。しかしながら多くの小説や詩などはまさに虚であり実ではありません。そのため、実と離れて想像の世界に入り込めます。文学は私たちを現実から離れて、想像の世界へ連れて行ってくれます。ここで問題が生じます。人は文学における虚と実をどのように区別しているのでしょうか?人は虚と実の区別が苦手です。よって小説の虚を実と勘違いする事があり、虚の世界を実と勘違いしてその世界にのめりこんでしまう場合があります。表現の自由は時たま人を虚世界に引き込み社会に衝撃をもたらす場合があることに注意する必要があると思います。人は宗教や文学の世界にのめり込むとその虚実の区別がつかなくなります。マインドコントロールは人から虚実を区別する能力をそぎ落とします。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)」という俳句は、実際に正岡子規が秋の法隆寺で鐘の音を聞いて作った俳句ではなく想像上の情景を詠んだものだそうです。よってこの俳句は虚を実のように仕立てた名句です。くわばらくわばら!  さて近年本の発行部数が減少していると言われていますが、デジタル化がその原因と言われています。しかしながら、本当にデジタル化が原因なのでしょうか。そうとは思えない節が散見されます。近年文字だけの本に比較し、漫画など挿絵が挿入されたものが繁茂しています。この理由として文字だけでは表現できないものがあるのではないか。また文字だけの表現には限界がきているのではないか。要するに文字文学はネタ切れではないかと思われてなりません。いや、文学に限らず科学や政治、音楽や運動など多くの事物に限界がきているのではないかとも思えます。(限界や飽和については別途議論していと思います。)この多くの事物に存在する限界感が人を虚世界に誘っているのではないでしょうか。文学はこれまでのものとは大きく異なるようになると思われます。より虚が増大し、実は影を潜めるようになると思われます。特に純文学といわれている分野はかなり限界に近いのではないかと思われます。


10、芸術(文学を除く)の虚実について

 芸術は基本的に人の感覚を表現する手段であるため、虚と考えられます。しかし芸術の多くは実体を伴います。絵画や彫刻、音楽、ダンスなどどれも実態があります。ただし、その価値は感覚的であるため虚です。そのため絵画や彫刻などの全てが芸術ではないようです。小学生の絵は芸術?私の音楽は芸術?多分違います。では芸術とそうではない絵はどのように区別されるのでしょうか?音楽、ダンス、彫刻にしても芸術か否かの分かれ目はどこにあるのでしょうか。ここに虚の本質があります。虚は人や時代によって大きく変化します。バンクシーが描いた壁の落書きは芸術であり自治体も躍起になって保護するでしょうが、もし私が壁に落書きを描いたら警察に訴えられるでしょう。なぜでしょう。それはバンクシーが描いた落書きは落書きではなく芸術作品だからです。誰か(多分その方面の権威)がバンクシーが描いた落書きは芸術作品であると言ったからです。でも100年後にも同じ評価が下されるとは限りません。虚は人類特有のものであり、時間的にも空間的にも変化します。明治時代初期に行われた廃仏毀釈のように、芸術の多くはその価値が変化します。芸術はまさに虚の代表です。ここに芸術の本質が存在します。 人は絵画や彫刻などの実から虚を生み、それを実体と重ねて記憶します。その時点で実と虚が混交しその区別が不明確になります。特に問題となるのはその混交時に外的な虚が作用することです。このことは他の実と虚の混交時にも起こります。ここで外的な虚と内的な虚を明確に認識することによって芸術を自分自身のものとして認識することが可能となると思います。人は外的な虚を無視することはできませんが。外的な虚は内的な虚の参考であってその主たる虚は内的である必要があります。芸術にしろ文学にしろ虚空間は本来自分自身のものですから。芸術を自分のもとして捉えることは、希少価値や価格的価値を排除し、自分自身の感性と理性で鑑賞することが可能となります。ところで芸術は感覚的に鑑賞するなものでしょうか、理性的によって鑑賞するものなのでしょうか?それともその両方が必要でしょうか?多分虚実の調和によって鑑賞することが重要ではないかと思います。


11、数学の虚実について

 数学は自然科学の理論的理解には不可欠です。多くの物理現象は数学によって記述可能です。しかしながら数学そのものは記号という意味で実ですがその結果には多くの虚が存在すると考えられているようです。数学が虚を扱っているのか実を扱っているかはかなり難しい問題と思います。科学の多くは数学によって記述され、理解されていると思われ、数学は新しい法則や原理を記述する助けになっています。そのような意味では数学は実を扱っています。しかしながら、数学は例えば非ユークリッド幾何などの虚も扱っており、必ずしも実を扱っているとは限らないと考えられています。最近スティーブン・ホーキング氏は虚数空間を用いて宇宙の始まりに関する課題が解けたと主張しています。すなわち、虚数は虚ではなく実であると言っています。また非ユークリッド幾何は135億年の有限で曲がった宇宙に適用可能と主張している方もいます。そのように考えると、もしかしたらこの世は数学で成り立っているのかもしれません。数学はもしかしたら実であるかもしれません。すべての物や事象が数学によって解析可能であるかもしれません。少なくとも私たちのような生物内の反応は物質中の電磁気力によるものであり、電磁気学で計算可能です。ただし現実には膨大な計算が必要なので、現在のコンピュータではその全ての現象を解析できません。しかし理論上は可能です。天候などの自然現象も数学的な扱いが可能です。では数学は自然科学であり実なのでしょうか?私は数学に関する知識が不十分なため、これ以上の考察を深めることはできません。しかしながら、数学が自然の全てを記述できないとしてもその一部を記述できることは事実です。従って数学が完全な虚であるとは思えません。縦しんば数学が虚であったとしても、今後もこの分野の理解が重要であることには変わりないと思います。(大変だ!早く理系女子を増加させて理系男子の負荷を軽減させて頂きたいと思います。)


12、国の虚実について

 私は日本国民です。なぜならば私は日本国民の父と母から生まれたから。でもどうして日本国民の父と母から生まれたら日本国民なのでしょうか?それはそのように日本の国民が決めたからです。国とは土地(実)と人(実)とそれを統治する政治体制(虚)があることです。国は人の概念によって生まれた人の集合体です。かつて親類縁者からなる小さな集団であった人々は他の集団との力関係を有利にするためより大きく強大化していき、統治が可能な大きさの集団として国が成立したと思われます。そして土地と人民はその中の実の部分であり統治機構は虚の部分です。では国としての土地や民は本当に実なのでしょうか?土地や民(人)そのものは実です。でも国際法上の国土や国民はその国の統治機構によって定められたものであり、虚によって設定されたものです。このためウクライナやクルドなど多くの問題が起こることとなります。虚的存在は人の思考によって変化します。よって国土や国民も時と共に変化すると思います。移民や移住に関する考え方も今後大きく変化すると思われます。ただし、その変化がどのようになるかが問題です。現在は国によって統治システムが異なるのみならず、人の感情や感覚にも多くの違いがあります。この理由として現行の統治システムの違いのみならず過去の歴史的な状況や土地の環境の違いの影響が考えられます。このため国という括りが変化するには多くの時間と努力が必要かもしれません。ただし、情報化の進展はやがて国家間の感情や感覚の違いや政治システムの違いを減少させることは確実です。今後国のあり方がどのように変化するか、実に興味深く思います。(もっとインバウンド需要を増加させ海外留学を促進すべきかも。)


13、社会(世間)の虚実について

 さて私たちの社会(世間)は虚でしょうか、実でしょうか?(社会と世間は異なると主張する方もおられますがここでは取り合えず同じものと考えます。)これまでの議論から虚実混交であることが理解できると思います。社会とは人間の集団が活動する状態を指します。社会における実際の活動(生産や消費、文化、スポーツなど)は実であることは間違いのないことです。しかしながら活動の結果に対する社会の評価は虚です。人が社会において活動することにおいてもっとも重要なことはその活動が社会によって承認されることです。承認欲求は人が社会という集団の一員として認めてもらいたいという欲求であり、人の基本的な欲求の一つと思われます。ここで問題となることは承認する人が他人であることです。つまり社会に於ける活動は他人の虚によって評価されるため、その時の時代背景や環境によって大きく左右されることになります。例えばチューリングマシンを発明したアランチューリングは戦時下という特殊環境であったため、存命中にその功績が評価されることはありませんでした。社会活動の評価が時代によって大きく変わることは、その評価が虚である証拠です。社会(世間)が求める事は時代によって変化します。今の社会と共に歩むべきか、今の社会の外に目を向けるべきかの判断はかなり難しいと思われます。一般的には社会の評価をもって自己の評価とすることが簡便かつ安全な判断と思いますが、革新的な社会の改善は現状の評価基準の外に存在することが多いと思われます。いずれにしても、社会における評価が虚であることは間違いのないことと思われます。。


14、戦争の虚実について

 戦争そのものは実です。しかしながら戦争は認知革命によって得た概念(虚)によって起こされます。概念のない時代(原始時代)は戦争ではなく個人の喧嘩でしかありませんでした。しかし概念は部族や人種や国を生み、喧嘩は戦争へと拡大しました。虚は人類に益をもたらすと同時に害ももたらします。特に戦争は虚がもたらした最も大きな弊害です。単なる個人同士の喧嘩は欲や自尊心から発生します。このような喧嘩はせいぜい家族や親戚程度で留まると思われます。しかしながら、人には同胞という概念がありその同胞という概念は自己と同じ部族や人種内の他者との心的距離を縮め、他の部族や人種に対する心的距離を拡大し、部族間や人種間の争いを起こします。アダムスミスは道徳感情論においてこのような同胞感情が共感から発展すると言っています。人には本能的な残虐性が備わっていることはフロイトなど多くの心理学者の指摘の通りですが、これに同胞感情が加わることによって喧嘩が戦争に発展すると思われます。そしてそれは想像上の感情である「同胞」の弊害であり、虚の負の作用であると思われます。しかしながら、この感情が人に心的な安定をもたらすことは明白なので、この虚を否定することはできません。戦争の必要条件が同胞感情であってもそれは十分条件ではありません。戦争の多くは人の欲から生じる同胞に対する異邦の残虐行為が原因であり、その行為に対する同胞感情から生じる怒りが敵という虚的存在を生み出すことによって生じます。よって戦争を防止する方法は他の条件、例えば残虐性や欲望、怒りなどの条件を制御することが肝要かもしれません。もしこれを制御することができなければやがて人類は滅びることになるかもしれません。でもその制御は結構難しいことのようです。なので当分戦争はなくならないと思われます。


15、政治の虚実について

 政治は実を虚によってコントロールする手段です。有史以来多くの政治手法が試みられてきましたが、現在日本では民主主義なる手法が施行されています。しかしながら他の国では独裁的な手法や共産主義的な手法も施行されており、まだどの方法が最良かは不明と考えられています。嘗てイギリスのチャーチルは「民主主義は最悪の政治手法だが、現在それよりもよい政治手法は発明されていない。」と言ったとのことです。民主主義の基本は多数決ですが、多数決の基本は少なくとも参加者の半数以上が正しい判断(もし正しい判断というものが存在するならば)ができることです。従って民主主義の国の国民は正しい政治判断ができる事が義務となります。単に選挙に行って投票することだけでは失格です。(従って私は多分失格です!)政治において最も問題となる点は、虚によって成り立っていることです。なぜならば、政治は現在の状態を把握しつつ将来の状況を予測して、問題となっている事象に対応する方法を思考しつつ計画実施するため、その思考内容には多くの虚が含まれます。現状から将来の状況を予測するため多くの仮定や仮説が用いられます。仮定や仮説は虚の代表です。政治家の好みで採用されるであろう仮説はその政治家を応援する利益代表の仮説であるかもしれませんが、どのような仮説であろうと仮説は虚でありその仮説の良し悪しの判断はかなり困難です。だからといって何でも良い訳ではありません。ここで重要なことは、仮説の逐次評価です。仮説に基づいた政策は逐一その結果である実を評価する必要があります。そして問題が生じた場合はその修正が必要です。これが選挙です。つまり政策は仮説に基づいた虚であり、常に監視が必要です。 (よってたまにはデモも必要かもしれません。但し、力学的デモには参加しない方が良いと思います。特に独裁政権の社会では独裁者の仮説は仮説ではなく定説となります。従って、その説に反対することは定説を覆すことになり、ガリレオの地動説の例のごとく、少なくとも軟禁状態になることは確実です。民主主義の国においては軟禁状態は避けられると思いますが、インスタグラム上で炎上するかもしれません。)いずれにしても政治は虚であり、その政策には常に監視が必要となります。


16、経済の虚実について

 経済は生産と消費に関する活動であり、虚実混交の世界です。生産そのものや消費そのものは実ですがその間に虚が存在します。そして経済活動の虚の部分が実に及ぼす影響が常に問題となります。すなわち、生産と消費は空間的にも時間的にも直結しているわけではありません。この時空的隔たりの間に通貨や株など金融商品が存在します。金融商品は経済活動においてもっとも基本的かつ現代では無くてはならない存在ですが、同時に多くの問題を提供します。本来生産と消費はバランスが取れていなければなりませんが、その間に金融商品が存在することによって、貯蓄などの架空の生産や消費が存在することになり、時々そのバランスが崩れます。金融商品は前述のごとく虚的存在です。よって経済を金融商品で評価している限り、経済活動の多くの部分が虚的存在と考えられます。さらに金融商品は実物に比較し貸借や貯蓄が簡単にでき、株や債権などの多くの虚的資産を創造しました。この結果経済活動は複雑さを増大し、コントロール不能な存在になりつつあります。虚的存在が実的存在より重要となった結果、経済は人のコントロールから逸脱し虚世界の中で勝手気ままに振舞いつつあります。近年AIによってより適切なコントロールを目指しているようですが、かなり困難な取り組みのように思えます。複雑化した経済活動をよりシンプルな状態にもどせないか検討すべきかもしれません。ただしそのためには、初めに資産家の了解をとる必要があると思います。たとえ今の経済システムに不満があったとしても資産家の了解をとらずに変更すれば大変なこと(?)になるかもしれません。くわばらくわばら!


17、価値の虚実について

 ここで一度価値について考察したいと思います。広辞苑によれば価値とは@物事の役に立つ性質・程度A良いと言われる性質、などです。随分と大雑把な言葉だと思います。価値には人に関する精神的な価値(例えば美的価値や倫理道徳的価値、生命の価値など)と物品やプログラムソフトなどの有用性の価値があります。哲学的な意味での価値に関してはカントなど多くの哲学者によって議論されていますが、価値が虚であるため実際に価値の程度を判断することは非常に困難です。そこで人々はそのような価値(虚)の程度を人(精神的な価値)に対してはその社会的な貢献に対し勲章を授与したり表彰をし、また物品の有効性に対しては金銭的価格によって具体化(実)することを試みています。しかしながら価値のような虚を表彰や金銭によって具体化ができると考えること自体が虚です。虚が創造した実を評価することはある程度できても、虚自体の評価はそれほど簡単ではないと思います。よって表彰や金銭による価値の具体化の意味するところはその程度ではなく単なる有無と考える方が適当かと思います。これは善行や義行などの価値だけではなく、物品などの価値にも当てはまります。物品は一般に需給によって決まると考えられていますが、需給自体を具体的な事象と考えることに疑問があります。人は物が品薄になると慌てて買いだめをしたり、逆に物が豊富な状況ではまだ使用できるものでも簡単に捨てます。物の価格は需給というより、人の気分しだいで変化します。特に人の行為の価値は正に気分の問題のように思われます。当然価値は時代によっても場所によっても変化します。更に人それぞれによっても価値感は異なります。絵の好きな人にとってピカソの絵は多分(私はキュビズムの絵はあまり好みませんが)価値があると考えていると思いますが、絵に興味のない人にとってピカソの絵に価値を見出すことができるかどうか怪しいものです。(ピカソの絵の最高価格は200億円だそうです。あなたはピカソの絵と200億円の現金のどちらを所望しますか?)表彰制度や物品の価格といったある程度社会的に認知された評価手段によって価値を具現化することは、その時代の権力者や権力組織(政府、法人、学術団体などのあらゆる団体や組織)の権威を保つための手段であると思われます。表彰などはそれを実施した組織における人物や団体の価値判断を具現化する手段であり、物品の価格は企業組織がその製品の価値(すなわち企業の価値)を具現化したものです。価値とは、能力や思考、行動、物品などについて個人または組織がその社会的立場や個人の存在位置がどの程度なのかを判断する尺度であり、時や場所によって大きく変化する虚の代表と考えられます。よって価値に拘り過ぎると痛い目に遭います。太平洋戦争での敗戦を経験した当時の日本人はそのことを良く知っています。


18、人の能力の虚実について

 広辞苑によれば能力とは物事をする力を指し、心身機能の基盤的な性能を指します。従って能力は虚的な存在であり、能力によって実現実行された物品や行為などが実となります。また能力のない人は存在しませんが、能力には優劣があります。優劣は比較の問題であって絶対的な評価は存在しません。ここに問題が生じます。能力の優劣は何によって決まるのか?実現実行された物品や行為によってそれを行った人の能力を評価することが基本ですが、前述のごとく評価自体が虚的であり、客観性を欠いたものです。そこで人は比較的客観的な能力の優劣判定方法として試験制度を考案しました。試験のやり方は種々あります。筆記試験を先頭に面接や実技試験など多く存在します。しかしながら、試験は本当に人の能力を評価できるのでしょうか?本来「性能」とは目的に対して良い結果が得られるかどうかです。例えば包丁の性能はよく切断できるかどうかで決まります。よって、包丁の能力(性能)は切断試験をすれば判定できます。しかしながら人の物理学に関する能力において、物理学のテストに良い成績を取得したからといって、よい物理学者になれる能力があるわけではありません。確かに一つの目安にはなると思いますが、物理学には他の数学や多くの理工学などに関する知識が必要です。また試験はある見方(知識の豊富さ)からの能力であり、特に創造性のような新しい事物を作り出したり新しい課題の創出などの能力の測定には向いていません。また、ある方面の能力が優れていることと、その方面の社会的評価は別物です。特に人の能力は単にある一つの能力によって評価できるものではありません。人はその全体として評価するものであり、各能力によって評価してもあまり意味はないと思われます。なぜならば、人を能力毎に分解できないので。企業(個人事業も含む)や官公庁など現在の社会において面接試験が重視されるのは筆記試験では能力判定ができないからです。更にここで注意すべき点は、社会の必要とする人の能力と個人が獲得すべき能力は必ずしも一致しないことです。企業や官公庁などにおいて労働するための能力を人が必要とする能力と勘違してはいないか。人は楽しく生きるための能力(私の場合は釣り力や音楽力、絵画力)も必要です。よって人はその両者を獲得しなければなりません。人が社会から必要とされる時間が20歳から65歳までとしても高々45年間です。人生100年と考え初めの20年間を準備期間すると残りの35年間に何をするかは労働社会が必要とする能力とは多分異質な能力ではないかと思われます。ところで、 人の性能が能力であるとすると、人の性能とは何かを初めに議論すべきかもしれませんが、性能はそれが対象とする項目(例えば自動車の性能は馬力や燃費、排気量など)がないと評価できません。人の性能項目は何でしょうか?筆記試験や面接試験では人の性能(能力)はわからないのでは?


19、通貨の虚実について

 上述のごとく通貨そのものは実ですがその価値は虚です。しかし通貨には1円とか1万円のごとく価値が記述してあり、芸術や文化の価値と違って通貨の価値は人によって変動はしません。では通貨の価値は客観的に存在する価値、すなわち実でしょうか?確かに、ある期間(例えば日本の場合は第二次世界大戦後)は通貨価値が固定されていて心的に変化するものではないように思えます。しかしながら通貨の多くは紙でできており、どう見ても通貨の本体そのものに価値は見出せません。通貨の価値は想像上の価値であり紙幣や硬貨である必要はありません。事実近年はデジタルマネーが用いられています。通貨は事物の価値の表示手段の一つであり、虚の代表です。多くの事物の価値はその表示手段が乏しく、また人によっても変化します。例えば写実絵画に価値があると思う人もいれば抽象画に価値を見出す人もいます。写実画と抽象画のどちらに価値があるかを議論しても多分決着はつかないでしょう。しかしながら何らかの方法で価値を統一した方が社会を維持する上で便利です。貨幣はそのための一つの手段です。通貨で全ての価値が判定できる訳ではないことは自明のことです。しかしながら近年通貨が価値判断の一つの手段であることを忘れ、全てが通貨によってその価値が判断されようとしていると思われてなりません。江戸時代には身分という価値判断がありました。また戦前は職業(学校の先生や軍人、労働者、農家)などによる価値判断がありました。しかし現代はそのような価値判断はほぼ消滅し、金銭的収入の多少が人の価値判断に大きく寄与する社会へと変貌しています。数十年前に「一億総中流社会」という言葉がはやりました。この中流は精神的なものではなく金銭的収入が中間的であるというものです。本来価値の評価軸は直交しています。絵画の価値と音楽の価値はその評価の軸が全く異なるものでお互いに直交しています。従ってそれらの評価値を掛けたり足したりできません。例えば料理の価値は味や色、形、温度などの直交している評価軸から成り立っているため、その評価を各評価軸の値の掛け算(高次元体積)や足し算(同一次元化)によって評価しても意味がありません。しかしながら、人は簡単な評価基準が好きです。しかもその評価基準軸は少ない方が便利で分かりやすい。よって人は金銭での評価に頼ります。野球の大谷選手の投球や打撃の技術の解説を聞くより彼の年俸が800億円と聞くことの方がよほど彼の野球技術の優秀さを実感できます。価値を判断する基準が貨幣のみになるとその価値感に何らかの意図が含まれているような気がしてなりません。何時か価値基準が公平になることを願っています。但し貨幣という価値尺度が虚であることには変わりありません。


20、(物的)財産の虚実について

 シュメール人は各人が所有する羊(財産)の数を数えるために文字を発明したと言われています。財産は人の生産性が向上し蓄えができるようになった時代に発生したと考えられます。当時の財産は食料や土地、建物など実際に存在する実が財産でしたが、現在ではその種類が非常に多くなり実的な土地や建物、食料、物品などに加え、虚的な通貨や株式、債権、更に特許や著作の権利などありとあらゆるものに財産という価値(有用性の価値)が与えられました。しかも実的な土地や建物も通貨によって評価されるようになったため、その価値が虚的なものに変化してしまいました。ここで問題が生じます。物々交換の時代における財産は実在する物でしたので、目で確認でき実体を把握できるためその価値を把握することが比較的簡単でしたが、通貨という虚的な存在によって財産が評価されたことによって、はその価値の把握がきわめて困難になりました。最近都会の高層マンションの値段が高騰している理由を調査したら、遺産の相続税の軽減のためだったそうです。物々交換の時代には相続税は無かったので比較にはなりませんが、財産に限らず多くの事物が社会の構造やその統治システムによって生み出された多くの虚によって複雑化し、ある意味コントロール不能に陥っているようにも思えます。なお財産には物的なものばかりでなく資格や技能のような人の能力がありますが、能力は前記のごとくそれが現実の舞台で発揮されて具現化されなければ財産とは言えません。財産は時と共に虚化しつつ複雑化しています。


21、記録の虚実について

 時間経過とともに変化しないものは存在しません。そのため記録はその変化を多少なりとも記憶にとどめようとするものであり、世の中の状況や思想、文化などを文章や画像などとして本や記憶素子などのメディアに保存します。しかしながら記録には必ずしも事実のみが保存されているとは限りません。日本の古い記録である古事記や日本書紀、吾妻鏡、甲陽軍鑑などの記録にはとても事実とは信じ難い事項が記述されています。また他の多くの記録にも事実が正確に記録されないものが散見されます。なぜ事実が正確に記録できないのでしょうか?事実には必ずしも記録にとどめ難い事項が含まれており、記録することによって将来問題となるであろう事実は記録されなかったり歪曲されて記述されたりする場合があるということです。また事実の全体を記録できることは稀で、時間的にも空間的にも局所的に記録されることが一般的です。さらに記録には主観が加わることがあり、客観性が失われた記録もあります。記録は過去を検証し未来に役立てることがその主たる目的です。従って思想のような虚的なことも重要ですが、事実に基づく事象や出来事が詳細かつ正確に記録されることが望まれます。しかし多分そうは問屋がおろさないと思います。また記録はある時点における世の中の状況のほんの一部であることにも注意が必要です。従って記録が虚的なのか実的なのかよりも、思想、政治、経済、文化、事件、技術などなどの多くの分野の進展後退の歴史に注目すべきであり、またその記録の時点で人々がどのような事項に注意を向けていたかにも注目すべきと考えます。いずれにしても記録自体は実ですがその内容は虚実混交です。(高市早苗氏に関連した総務省文書は虚でしょうか実でしょうか?)


22、歴史の虚実について

 歴史は過去の事象であり、現時点においては過去の記録と記憶以外にその事象の確認方法はありません。よって記録と記憶には虚が含まれていると考えられます。従って歴史は虚実混交と考えられます。最近高市氏の国会答弁において記録の虚実が明確になりませんでした。このことに歴史の面白さがあります。一般的に過去は存在したものと多くの人が認めると思われます。しかしながら決して過去を確認することはできません。相対性理論では人は未来に行くことが可能です。しかしながら過去に行くことができるとの理論はまだ発見されていません。もちろん今後過去にいくことができる発見や理論が構築されないとも限りませんが、現時点では歴史は虚実混交として扱うことが必要と思われます。今川義元が桶狭間で打ち取られた事件において織田信長が3000人で攻めたということですが30000人ではないかとの意見があるそうです。多分そのどちらかを確認することはできないでしょう。歴史は全部とは言いませんが意図的に捏造されたものも多く存在します。例えば戦国時代に書かれたと言われている甲陽軍鑑は武田家の家臣が書いたもので、武田家に都合の良い記述になっていても不思議ではありません。古事記や日本書紀が朝廷に有利な記述でないはずはありません。このことは今後も変わらないと思います。ウクライナとロシアの言い争いを聞くにつけ、現在も歴史が捏造されていることがよく解ります。歴史において虚と実を見分けることはかなり困難とおもわれます。でもそこが歴史の面白いところだと思います。


23、名誉の虚実について

 前述の価値に関する記述において、精神的な価値と有用性の価値について議論しましたがここで精神的な価値における名誉について追加の議論をしたいと思います。  ノーベル賞や国民栄誉賞、勲章などなど名誉や栄誉を具体的に表現する多くの手段が存在します。勿論それが授与されるまでの課程における本人の行為は実である場合が多いと思われますが、それらの行為を表彰する賞は虚です。通貨は物品などの価値を表しますが名誉は人やその集団の価値を表す手段の一つです。ただし人の価値は物品の価値と違い需要と供給のバランスによって決めることはできません。だれがどのような評価基準で賞を決定するかの基準が明確でないものが散見されます。名誉や栄誉は多くの場合、時の権威(政治、官僚、学会、各種団体などの権威)によって決定されます。このことは、時の権力者や権威はその権威を維持するために名誉や栄誉を設定していることに注意すべきです。この場合に権威とは何かに注意すべきかもしれません。この場合権威は単に権力者(人)を意味しません。団体そのものも含まれます。権力者や団体はその維持や権力の向上のため名誉や栄誉を授与する場合があると思われます。もちろんそのような意図が無い場合もあるとは思います。ただ名誉や栄誉は時代によって大きく変化する虚です。たとえば、広瀬武夫中佐の銅像は戦後になって撤去されました。嘗て多くの小学校にあった二宮尊徳の像は今やほとんど見なくなりました。なお、野球や柔道などのスポーツは比較的評価基準が明確なようにも思われます。たとえば野球の勝利グループに関して言えば、その勝利グループの野球が上手なことに対する評価であり、マラソンならばその長距離を走破できる能力に対して評価しています。しかしながら野球やマラソンに興味のない人にとってその評価の意味はありません。虚とは人によって変化するものです。勝敗を争うことは実ですが評価は虚です。ところでなぜ人は勝敗にこだわるのでしょう。それは幼少のころから勝敗に拘るように親や世間(幼稚園や学校)が指導するからだと思います。勝敗があるから人は努力できるという考えの基、特に親は子に勝敗を意識させようとしていると思われます。勝敗とは戦いの結果です。よって人は幼少期から常に戦わねばなりません。なんということか!(幼稚園で徒競走は必要か?)


24、AI(人工知能)の虚実について

 暗号解読機として開発されたチューリングマシンに始まるAIの技術は虚でしょうか実でしょうか?フォン・ノイマンはチューリングマシンを参考に現在のコンピュータの基礎を築きました。コンピュータ自体は明らかに実です。しかしながらそのアウトプットは実でしょうか、虚でしょうか?チューリングマシンはエニグモで作られた暗号を実際に解読できたのでそのアウトプットは暗号解読という実です。また現在の計算機は人の考えた命令(プログラム)に則って結果を計算しているのでその結果は実であるはずです。ここで計算とは何かということが重要です。現在の計算機は0と1、すなわちスイッチがオンなのかオフなのかの組み合わせによって計算しています。そして私たちの脳もオンかオフの状態(シグモイド関数のように活性化するとの説もある)の組み合わせによって機能しているようなので、AIは人の脳に取って代わることが可能かもしれません。しかしながらもしAIが人の脳に取って代わることができるとした場合、AIは虚を創造することができなければなりません。またAIが数学で成り立っているとした場合、脳が数学によって成り立っていると考えられるでしょうか。それともAIはロボットと同様に人とは全く違う機構の思考(?)構造と考えるべきでしょうか?近年、AIの価値が高まっているように思われます。私は音楽雑感において「創造は組み合わせである」と記述しましたが、AIはネットワークの中の膨大なデータ(知識)を組み合わせて新しいデータ(知識)を創造することができます。よってAIによって創造されるデータ(知識)は虚も実もあり得ると考えられます。なぜならば、ネットワークの中のデータには虚も実も含まれ、その組み合わせは虚も実も創造できると考えられるからです。今年になってAIによって国会での質問を作成して話題になりました。人の脳内でイメージした結果とAIがイメージした結果が同じであった場合、明らかにAIは虚や実を創造できることになります。まさしくカーツワイルが主張したシンギュラリティーが現実化するかもしれません。そのため現在ChatGPTやMidjourneyの使用を法によって制限しようとしてますが、しかしながらそれによってChatGPTやMidjourneyを使用できる人とできない人が出てくると思います。ここに新たな身分や階級が出現するかもしれません。一体誰がChatGPTややMidjourneyなどのソフトを無制限で使用することができるようになるのでしょうか?くわばらくわばら!


25、おわりに

 虚とは実体のないものであって架空のものですが、人はそれを実在として認識することができます。人の認識能力の本質は虚を実として捉える能力であると思います。それは人間のみに備わった能力です。人の認知機能は実体から虚を創造しそしてその虚を基に更に虚や実を創造します。しかしながらやがて虚と実の区別ができなくなり虚を実と勘違いしている節が散見されます。虚を実在として認識することは虚を実と考えることと異なります。虚は虚としての実在を認識すべきであり、実として認識することは誤りです。虚はあくまでも虚であり実とは本質的に異なります。虚は認知機能によって創造されたもので時と場所、状況によって変化します。虚の内に埋没し虚実の区別ができなくなることは多くの危険を抱えることになると思います。唯識論はある意味実の存在を否定しているようにように思われます。唯識論はあらゆる存在を虚とし、人までも虚であるとしているように思われます。しかしながら人はやはり実の存在であることを望んでいます。このため人は人の存在の意味を知るために神から脱却し宇宙の自然という実の中に存在の意味を探索しようと日々努力しています。そのことに意味があるかどうかは私にはわかりませんがシンギュラリティーが現実化するかもしれない現在、人の存在の意義を問い直す必要があるかもしれません。コンピューターやロボットが人の能力を超える時、人の存在意義がなくなるのでしょうか?とんでもございません!人無くしてコンピューターやロボットの存在の意義がないことは自明のことです。自動車にしろ飛行機にしろ人の能力を超えた機械は多数存在します。現存のコンピューターもすでに人の脳の計算性能を超えています。しかしながらそれらは人の存在のための存在であり機械の存在のために人が存在している訳ではありません。多分ChatGPTやMidjourneyのようなソフトの使用に法律の制限は必要ないでしょう。ChatGPTやMidjourneyが人の思考能力を低下するとは考えられません。むしろ向上させるのではないでしょうか。そして人はChatGPTやMidjourneyを用いてそれらのソフトの機能を超えるべく自身の能力を向上させなければならない時代が登場したのだと思います。そしてやがて人はその存在意義を実の中に見出すことができると信じます。ガンバ!超人を目指せ!