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1、音楽の要素について
一般に、音楽には3つの要素(リズム、メロディー、ハーモニー)があると言われています。無論、これは一般的なもので、ラップなどはメロディーがほとんどありませんし、前衛音楽においてをやと思います。したがって、音楽に3つの要素が常に必要なものではありませんし、また、音楽に3つの要素以外のものが加わることもあります。そう、その中で最も重要な要素が「詩(ソング)」であると思います。(ソングはほとんどの場合、メロディーを兼ねており、時には歌詞に意味がなく、肉声という楽器として機能する場合もありますが、一般的には音楽に思想や感情などの「意味」を導入するという点でメロディーとは区別すべきでしょう。)歌謡曲は詩が主要な要素であり、「音楽」というより「詩」といったほうが良いかもしれません。元来、詩の多くはメロディーをもって吟じられます(歌謡)。ラップはリズムとソングから成り立っています。音楽の3要素は器楽曲を分かり易く要素分解したもので、ソング以外にもパフォーマンス(例えばダンスなど)を含んで音楽と考えてもよいかもしれません。特に、近年の音楽の要素は「リズム、メロディー、ハーモニー、ソング、パフォーマンス」の5要素と言っても問題ないように思われます。(これは、詩やダンスを軽視したものではありません。)さて、近年ポップスの世界では3要素を基本にしたInstrumental musicのヒット曲は非常に少ないように思えます。日本では、1950年代頃(?)にベンチャーズというバンドがエレキギターのInstrumental
musicを数多くヒットさせたことがあります。この頃はエレキギターの音色自体が目新しいものであったり、エレキギターを用いたバンドの形式(リードギター、リズムギター、ベースギター、ドラムの4人で構成)がかっこよく、また手軽に誰もができそうなものであったため、多くの人に受け入れられたのではないかと思います。この頃のポップス音楽は3要素でした。洋楽における英語の歌詞は一種の楽器であり、J-POPの歌詞とは違う音楽要素でした。しかしながら、その後シンガーソングライターがカラオケブームと相俟って、音楽をリズム、メロディー、ハーモニー、ソングの4要素にし、そして動画技術の発達が音楽にパフォーマンスを参加させ、EXILEやマイケルジャクソンといったミュージッシャンが音楽を5要素にしたと思われます。もはや、それは従来の「音楽」という定義ではくくれないかもしれません。エンターテイメント性が高まるにつれて、従来の定義の「音楽」は主ではなく従になってきたように思えます。近年Instrumental popsは影を潜めています。無論これはポップス界の話であって、クラシックやジャズ、ヒーリング音楽などでは、まだ3要素は生きています。しかし、それらはメジャーなジャンルであるとはいえません。何時の日か、ポップスで再びInstrumental
music
が流行することがあるでしょうか?3要素を駆使した音楽はもはや過去の遺物と化したのでしょうか?さて、音楽には純粋音楽(絶対音楽)、標題音楽、効用音楽などの分類があるそうです。純粋音楽とは「ベートーベンの交響曲第1番」などのように、所謂思想や感情といった何らかの精神作用を表現したり舞踊や詩などの伴奏ではなく、純粋に音が時間の経過と共に響き、律動し、変化するその音の空間そのものを鑑賞できるような音楽です。また標題音楽は、「ベートーベンの交響曲第3番エロイカ」などのように、英雄(ナポレオン)を標題とし、それを表現すべく楽曲を構成するものです。また、効用音楽は映画や宗教に絡んだ音楽や軍楽など、何らかの効果(例えば軍楽においては士気の高揚など)を目的とした音楽です。では、ポップスはいったいこれらのどこに分類されるのでしょう?もしかしたら、そのいずれでもないのかもしれません。また、そのすべてを含んだものと言えるかもしれません。なぜならば、そのような分類は現在のように音楽が町に溢れてない時代に通用することで、現在のように同じ楽曲が何らかの宣伝に使用されたり、病院などの癒しに使用されたり、また単に携帯電話の呼び出し音に使用されたりする時代にあっては、あまり意味が無いのかもしれません。純粋音楽においては、音で作られる空間そのものが創造の産物であり、音楽の3要素は非常に重要なものと考えられていました。しかしながら、純粋音楽などという分類自体がもはや存在しない、あるいは存在しえない、のかもしれません。嘗ての「音楽」と現代の「音楽」では、もはや意味が違うのかもしれません。それはミュージックの語源がギリシャ語のムースィケーであり、その意味が違っていたように。今後音楽はどのように発展していくのでしょうか?やはり「エンターテイメント」の一部となるべきでしょうか?それとも「音楽」単独で存在すべきでしょうか?文化の融合が加速している中で、それぞれの分野が単独で存在することは、かなり困難なようにも思えます。音楽はやはり何かと一緒になって発展していくように思われます。
2、和音について
音楽において和音(ハーモニー、コード)は非常に重要です。3つの音高から成るトライアドが重要な和音であることは周知の事実です。しかしながら、近年、このトライアドのみから構成された楽曲はほとんどありません。基本的なロックのコードでさえ、2つの音高から成るパワーコードが使用されてたり、またポップスやジャズでは4つの音高から成るセブンスコードや5つ以上の音高から成るテンションコードが多用されています。無論、トライアドのみではメロディーが不足してきたことが主原因であると思いますが、私は別の要因があると考えています。すなわち、シンセサイザーなど、従来の楽器にはない音色が出現したことがその原因の1つと考えています。周知のごとく、音色は基音以外の音高(特に倍音)がどのように混ざっているかによります。例えば、261.6Hzのドの音はオクターブ以外に3倍音(ソに近い)や5倍音(ミに近い)、7倍音(♭シに近い?)を含んでおり、それらの倍音の音量が音色に大きく影響します。しかしながら、従来の楽器では倍音の音量を自由に操作して音色を変えることができるような共鳴装置(弦楽器では胴の形状)が無いため、音色は、管楽器と弦楽器の違いはあっても、管楽器同士や弦楽器同士ではそれほど大きな違いはありません。これに対し、シンセサイザーのような電子楽器では、音色の操作が比較的簡単になり、種々の音色が出せるようになってきました。そのような従来の楽器とは違った音色にはセブンスコードやテンションコードに含まれるような周波数の倍音も混入されています。この結果、そのような多くの倍音を含んだ音色を聞いても、それほど違和感を持たない人(特に若年層)が増えてきたのではないでしょうか?そして、セブンスコードやテンションコードが多用された音楽にも同調することができるようになってきたかも知れません。もしそうだとするならば、メロディー不足などと嘆いたり、音楽がエンターテーメント化してしまったなどと、嘆く必要はありません。今後も、より多くの音色が生まれ、より多くのメロディーが生まれるのではないでしょうか?ところで、和音は1度、3度、5度、7度のように音高が2度置きに配置されています。1度、2度、3度の組み合わせはありません。そのような音高が近い組み合わせは不協和音になります。この理由はあまり明確ではありません(うなりが原因であるという説もある)が、音高が近いと音高の判別ができないため、脳にストレスがかかることが原因ではないかと思っています。これは1度、3度、5度、7度の組み合わせより1度、3度、5度の組あわせの方がより美しく聞こえるからです。つまり、4つの音を聞き分けるより3つの音を聞き分けるほうが脳に負担がかからないと考えると納得できるからです。つまり、脳に(音を判別するために)どの程度の負担を掛けるかが、協和音か不協和音かを決めることになるのではないでしょうか?私たちは理解し易い事に対して「愉快」に感じ、理解し難い事に対して「不愉快」に感じます。クラシックの世界ではかなり以前からテンションコードなどが用いられていたようです。しかしながら、一般の人がそれらを簡単に理解するには、多くの時間が必要であったのではないでしょうか?音楽を楽しむ能力は、人間に生まれつき備わったものではないと思います。だから、古代ギリシャでも音楽教育が行われたのでしょう。より不協な和音を楽しめる教育方法はないでしょうか?そうすれば、人々はもっと多くのメロディーや和音を楽しめるでしょう。これは音楽家にとっても喜ばしいことのように思います。
3、リズムについて
リズムは、もしかしたら、ポップスにおいて最も重要な音楽要素かもしれません。ロックやポップス(ロックはポップスの一部?)の元はケークウォーク(Cake
walk)だそうです。嘗てアメリカのアフリカ系奴隷が、主人からケーキをもらうために、2拍子のリズムに合わせて踊ったそうです。その踊りをケークウォークと言い、そのリズムが白人音楽と相俟ってジャズやロック、ポップス(ポップスにはより多くの音楽形式が含まれており、必ずしもケークウォークが元であるとは言えないかもしれない。)が形成されたそうです。今日のポップスがアメリカの悲しい歴史から生まれたというのは、なんとも言いようがありませんが、音楽に限らず、芸術の世界では「悲しい歴史」というのは付き物かもしれません。悲惨な生涯を送った音楽家や芸術家は枚挙に遑がありません。さて、リズムの話に戻しましょう。ジャズやロック、ポップスではドラムを中心にした打楽器が基本的なリズムを刻んでいます。特にダンス音楽では、打楽器の役割が非常に重要です。しかしながら、ポップスではドラムは基本のリズムを刻むものであって、リズムの中のテンポを担当すると言ってもよいように思います。リズムの全体はベース音やギターのコード演奏やリフなどによって作られます。要するに、楽器(音声も含む)全体でリズムが形成されます。4/4拍子であっても、必ずしも強・弱・中強・弱となってはいません。むしろ、基本のリズムからの違いが、大ヒット曲に繋がっていると思います。更に申し上げれば、音楽を3つの要素に分解したのは、音楽を科学的に理解するための西洋的な分析手法のように思われます。リズム、メロディー、ハーモニーは実際には一体であり、不可分なもののように思われます。ところで、なぜ日本古来の雅楽とポップスやジャズに見られるリズムがこれほど違うのでしょう?いや、リズム以外にも音楽のすべてにおいて、地域や時代によって大きな差が見られます。時代による違いは、楽器などの機器の進歩によるところが多いと思いますが、地域差は何に起因するのでしょうか?文化、国民性、教育、気候、地勢など、多分それらのすべてが関連しているのでしょう。ですから、分析してもあまり意味がないかもしれません。ただ、なんとなく、日本ではジャズは生まれなかったのではないかと感じます。しかしながら、最近は地域差が少なくなりつつあるように思います。いずれ地域固有の文化は無くなるのでしょうか?そうなると、新しい音楽は生まれにくくなるかもしれません。固有なものを保存することも重要ですが、固有なものを生み出す工夫の方が更に重要かもしれません。
4、メロディーについて
メロディーは嘗て音楽の主要な要素と考えられていました。そして、かなり以前からメロディー不足と言われ、音楽の終焉のようなイメージがささやかれた時代がありました。しかしながら、メロディーがあまり感じられないラップなどが流行してくると、「メロディーとは何か?」と考えさせられ、前衛音楽も「あり」なのかもしれないと思うこともあります。でも、私個人としては、やはりメロディーは音楽の主要な要素と思います。メロディーが感じられなくなると、音楽というよりは、詩の語りのようであったり、ダンスであったり、要するに音楽以外の何かであるような気がします。やはり、音楽にはメロディーがあったほうが良いと思います。メロディーが同じようであっても、リズムやハーモニーを変えることによって、新しい感覚を得ることができます。また、音色も非常に重要だと思います。違った楽器で同じメロディーを演奏することは、よくあることです。特に、シンセサイザーなどのデジタル音源が発達した今日、音色を変えることはとても面白いと思います。音楽を専門的に研究している方や教養として学習しようとしている方にとっては「メロディー不足」であっても、音楽を「遊び」として楽しんでいる私にとって、「メロディー不足」などということは問題になりません。メロディーは音楽のほんの一部なのです。なお、音楽を「遊び」と言うと、「トンデモナイヤツ」とお叱りを頂くかもしれません。でも、ホイジンガ氏の著作になる「ホモ・ルーデンス」やカイヨワ氏の「遊びと人間」などを読むと、芸術や演劇、スポーツなどおよそ文化といえるものの大部分、更には法律や戦争までも、「遊び」の要素を含んでいると主張されています。音楽と「遊び」についてはまた別途記述したいと思っています。いずれにしても、音楽は今後もずっと「面白い」ものであり続けるだろうと思います。
5、音色について
音は空気の縦(粗密)振動です。そして、それを人間の耳が鼓膜の振動として検知し、脳に伝えます。よって、音に対する感覚(音色や音高など)は鼓膜の振動特性と、脳による鼓膜振動の信号処理方法によって決まります。脳の信号処理方法はまだ詳しく解かっていませんが、いくつかの経験則があります。たとえば、オームの法則(音の高さは基本振動数によって決まる。高調波は音の高さではなく、音色に関係する。)やヘルムホルツの法則(音色は高調波の数やボリュームに関連し、音波の位相によらない。)、フェヒナの法則(音の強さは物理量の対数になる。)などです。(なお、ヘルムホルツの法則やフェヒナの法則は一部修正されています。)つまり音は、音のセンサーである耳の特性と、そのセンサーからの信号を処理する脳の特性によってきまります。さて、脳の構造と機能との関連はまだ十分に研究されているわけではありませんが、昔から良く知られている脳の構造モデルで「バックプロパゲーション(誤差逆伝播)」というモデルがよく知られています。このモデルは、脳細胞が層構造をしているというものです。第1層目に何かの信号が与えられ、それに対して最終層が何らかの結果を出し、その結果が間違っていた場合に、その結果に基づいて、層間の信号の伝播の大きさを少しずつ修正し、結果が正しく出るまでその修正作業を行うというものです。つまり、学習によって脳がより正しい結論を導くことができるというものです。簡単なモデルですが本物の脳も同じように機能している部分があると思われます。もちろん、脳はその部位によって機能も異なるので、すべてがこのモデルで説明できるものではありません。(海馬などのシミュレーションではKohonenモデルなどが知られている。)さて、この「バックプロパゲーション(誤差逆伝播)」というモデルで面白いことは、正しい結果をより早く導くためのモデルは、脳細胞が多ければ良いというものではないということです。また、どんな良いモデルであっても、学習しなければ正しい結果を出せないということです。つまり、学習していないこと(例えば聞いたことのない音色)については、それが「良い音か悪い音かの判断」を学習している脳に教えない限り、正しい結果「良い音か悪い音かの判断」を出せないということです。エレキギターのディストーション音を用いた曲で最初の大ヒット曲は、ファズマスターを用いたローリングストーンズのサティスファクションであるとのことですが、実はそれよりも以前からファズマスターを用いた曲はあったそうです。でも、そんな歪音は簡単に受け入れられず、人々が変わった音色を学習するまでに時間がかかったと考えると、納得がいきます。私達が新しい感覚を楽しむためには、それなりの学習が必要だと思います。新しい音色が作られても、それを快く感じ楽しむためには時間がかかるものだと思います。今も、多くのこれまでとは違った、そして今後楽しく聞くことのできるであろう音色が作られているでしょうが、残念ながら、私の脳はそれに追いついていないように思われます。
6、音楽に対する態度について
アドルノ(ドイツの社会学者)の著書で「音楽社会学序説」(平凡社)という本があります。この本のはじめに音楽に対する態度の類型に関する記述があります。専門家、良き聴取者、教養消費者、情緒的聴取者、ルサンチマン型聴取者、娯楽型聴取者、無関心または音楽嫌いな者などに分類しています。この中で、専門家、娯楽型聴取者、無関心または音楽嫌いな者は読んで字のごとしで、ある程度わかるとおもいますが、良き聴取者、教養消費者、情緒的聴取者、ルサンチマン型聴取者は少々解説が必要かと思います。良き聴取者は、専門家に近いのですが、あまり細かな枝葉については斟酌しないが的確に音楽全体を捉えて評価することができるタイプです。教養消費者は、レコードやCDの蒐集家にみられるような、いろいろな知識や情報に詳しく、音楽を社会での顕示欲のために知らねばならないものと考えているタイプです。情緒的聴取者は、音楽に、抑圧された本能の開放を求めるタイプで、簡単にいえば、音楽に感動して涙を流すようなタイプです。これと相反するタイプがルサンチマン型聴取者です。ルサンチマンとは嫉妬とか嫉みに根ざす反動的な概念で、キルケゴールやニーチェによって定義されています。彼らは、音楽を冷静に聞くことができまた、厳格に作品に忠実であることを求めるタイプで、商業化された音楽を否定するタイプです。さて、ここまでの記述を読んで、これはポップスの世界の話ではなく、クラシックに関することではないかと思われるかも知れません。その通りです。アドルノは1903年生まれで、主に第二次世界大戦以前に活躍した人なので、軽音楽に関してはせいぜいジャズに関する知識を持っている程度です。しかしながら、上記のような音楽に対する態度の類型をよくよく考察してみると、実にポップスの世界にも当てはまるように思えます。例えば、教養消費者はジャズのような比較的ポピュラーでない分野にはまっている人たちや、ビートルズのような「ポップス界のスタンダード」を愛する人たちに多いように思われます。情緒的聴取者は歌詞や音色に感動しやすく、カラオケで泣きながら歌っている疲れたサラリーマンなどがこれに分類されるかもしれません。また、ルサンチマン型聴取者は、ポップス愛好家には少ないように思います。民族音楽やクラシックでもバロック以前の音楽を愛好するような人たちに多いとのことです。あなたはどのタイプだと思いますか?さて、ここで音楽に対する態度が人によってこれほど違うのはなぜでしょう。ここでまた脳の信号処理能力が話題になると思います。言語が学習によって得られる能力であるように、音楽も学習によって得られる能力であると考えれば、納得できるように思えます。音楽を鑑賞する能力は、他の多くの能力と同様に、学習によって得られる能力であり、もともと人間に備わった能力ではないということだと思います。そして、人間が生きていくために必須の能力でもないということだと思います。人間が生きていくために必要な能力は、恐怖感とか悲しみを感じる能力のような、否定的な感情に反応する能力であって、楽しいとか幸福だとかの感情は必要ないのだそうです。だから、音楽に対して、いろいろな反応があっても、深刻な問題は発生しないわけです。でも、だからといって、どうでも良いというわけでもありません。一説によると、否定的な感情によって自律神経が異常になった状態を正常化するために楽しいとか共感だとかの感情を持つことが有効だそうです。よって、音楽を理解し、それによって楽しみや共感を得ることは、少なくとも(現代人の多くの)自律神経が異常と思われる人にとって、重要なことのように思われます。そう言われてみれば、私が音楽を聴いている時や作曲している時は自律神経に問題がある時かもしれません。なお、「音楽に対する態度」などという、感情とか感性といった測定が困難であり、検知信号の数値化(一部脳波によって測定可能なものもあるようです)が難しい事柄は科学的な分析は困難であり、したがって、なんとでもいえる哲学的な領域となるので、あまり真剣に考えなくてもいいと思います。
7、デジタルとアナログについて
デジタルとアナログはいったいどこが違うのでしょうか?なんとなく、デジタルはきちんと決まっていて、殺伐としたイメージであり、アナログにはなにか人間的な温かみがあるように感じられませんでしょうか?真空管を用いたアンプが高値で取引され、昔のLPレコードやテープがいまだに利用されています。さて、アナログとデジタルではどちらが本物の音に近いかといえば、当然アナログです。無論どのような録音再生機器を用いるかにもよりますが、アナログの方が本物に近いでしょう。デジタルは、ナイキスト定理に従えば、サンプリング周波数(一般的には44,000Hz)の半分、つまり22,000Hzまでの周波数しか再生できません。それ以上の周波数は雑音となります。一般的には人間の耳の特性として、20,000Hz以上の音は聞くことができないのでサンプリング周波数が40,000Hz以上であれば十分ということになります。ここが問題です。本当に人間は20,000Hz以上の音に反応しないのでしょうか?音は空気の振動であって、耳以外の人体にも影響を及ぼします。これは低周波側でよく体験することですが、大きな太鼓が鳴ると体が振るえるように感じることがあります。人間の耳は、20Hz以下は聞くことできないけれど、体の他の器官(皮膚の受容細胞など)がそれを検知することができるとおもわれます。もちろん、受容細胞が高周波音に反応するとは思いませんが、骨伝導に関する研究の中で、骨伝導によって超音波を聞くことができるとの報告があるそうです。もちろん骨伝導は、骨を伝わった音が耳の蝸牛に伝わって聞くことができるというものなので、基本的には耳の特性によって可聴周波数が決まると思われますが、不思議なことに、骨伝導によって超音波(可聴周波数より周波数の高い音)を聞くことができるとのことです。このことは、耳からの音を聞くというシステム以外に、音を聞く他のシステムを人間が具備しているということになります。これはもしかしたら第六感が現実に存在する感覚ということになるかもしれません(冗談)。でも、人間は必ずしも、今感じられる感覚だけしかないと思うのは間違いのような気がします。人間がこれまで進化してきた過程において獲得した感覚は、遺伝子のどこかに眠っているのかもしれません。遺伝子的には人間の祖先はナメクジウオだったそうです。もしかしたらその昔、ナメクジウオは(あるいはその後の人間に至るまでの進化の過程で)超音波を聞く能力をもっていたのかも知れません。その後、環境の変化などによってそのような能力は不必要となり、現在の人間にはそのような能力は備わっていないのかもしれません。でも、人によっては、あるいは状況によっては、そのような能力が無意識のうちに体に影響するのかもしれません。生物には痕跡器官(人間の盲腸のようにすでに退化した器官)が存在します。もしかしたら、人間には超音波を聞ける痕跡脳があるかもしれません。いずれにしても、アナログとデジタルの差は「温かみ」だとか「殺伐」などということではなく、音波をどの程度精確に検知できるかがアナログとデジタルの差です。「温かみ」だとか「殺伐」とかは、音波の検出装置(マイクロフォンなど)や記録装置(レコードやCDなど)、再生装置(アンプやスピーカーなど)の差によって生じます。なお、私には20,000Hz以上の周波数の検知能力がなさそうなので、私はデジタルの方が好きです。(実は、アナログの音響機器は高価なので手がでない。)
8、音の共鳴について
音が共鳴するとはいったいどういうことなのでしょうか?音の共鳴を考えるとき、少なくとも2つの共鳴現象を考える必要があると思います。それらは、物体(固体)と空間(気体)の共鳴です。一般的に固体は、その形や密度によって固有振動数(共鳴周波数)が決まっています。固有振動にはいくつかの振動モード(振動の状態)が存在し、その振動モードごとに違う周波数で振動します。打楽器(ドラムなど)や撥弦楽器(ギターなど)、擦弦楽器(バイオリンなど)、打弦楽器(ピアノなど)などはこのことを利用しています。例えばアコースティックギターの場合、弦をはじくと弦の張力と長さや質量によって決まる固有振動数で弦が振動します。そしてその振動は駒を介して胴部に伝わり、胴部の固有振動数が弦の固有振動数と一致した場合に大きな音がすることになります。ここで胴部の形状が問題になります。胴部の形状がたった一つの固有振動モードしかもたない形状だったらその周波数の音のみが大きく聞こえ、他の音はあまり聞こえない状態になります。そこで、より多くの固有振動モードを持つように胴部を設計する必要が生じることになります。さて、なぜ固有振動数なるものが存在するのでしょう。物体の振動は、なんらかの刺激(例えば打撃)が加えられることによって生じます。このとき、衝撃によって物体の中の原子間の距離が変化します。この距離の変化が波(音波)となって物体中を伝播します(進行波)。この音波は物体の端面で反射して逆端に戻ります(反射波)。反射するときに波の位相が反転するため、進行波と反射波の位相が180度ずれます。そしてこの逆端で再度反射した波がはじめの進行波の位相と一致した場合に、進行波と反射波はお互いに振幅を強め合うこととなります。このような周波数の波(共鳴周波数)が固有振動と言われ、つまり進行波と反射波が重なって発生した定在波が固有振動です。進行波と反射波の位相が一致しない振動はお互いに弱め合い、熱となって消えていきます。そして固有振動数で端面の間を往復する波は、音として空気を振動させたり、物体内部の温度を上昇させることによって、やがて減衰してなくなります。次に、空間(気体)の共鳴ですが、これは物体が空気になっただけで、原理は同じです。ただし、ギターの胴部のような閉鎖空間での共鳴と管楽器のような開空間の共鳴は、多少違っています。閉鎖空間では音波は壁(胴部の板)で反射しますが開空間では空間の断面積の違い(特性インピーダンスの違い)によって音の反射が起こります。つまり音が伝播する空間の面積が異なると音波の単位面積当たりの通過エネルギーが変化するためその振幅が変化します。これを電気回路に置き換えれば、抵抗(インピーダンス)が変化したのと同じです。すなわち、空間の面積が小さな場所(管楽器の管の内側)に比べて空間の面積が大きな場所(管楽器の管の外側)では特性インピーダンスが急激に小さくなります。(特性インピーダンスは管径の二乗に反比例する。)この特性インピーダンスの違いが音波に対する壁のような役目をします。そして個体の振動と同じように、管内の進行波と反射波の位相が一致したとき共鳴振動が起こります。さて、このような管の端面で音が反射した場合になぜ音が管の外部に出てくるのでしょう。実はすべての音が管の端面で反射するわけではありません。音の一部は管の端面から外部に放出されます。そしてこの放出される音は共鳴していない周波数に比較して大きく増幅されます。これは管内において、音が端面間で多重反射することによって、大きな音波のエネルギーを蓄えることになり、そこから音波が放出されるからです。どの程度のエネルギーを蓄えられるかは、その管のQ値と呼ばれる量で決まります。Q値が大きいほど多くのエネルギーを蓄えられることになります。ただし、これは楽器から出る音の大きさに関係する量であり、音色との直接の関連はありません。(ただし、ある周波数のQ値が大きいということはその振動数に対する共鳴が鋭いということなので、その共鳴周波数から離れるに従って、急激に音が小さくなることを意味しています。逆に、Q値が小さければその共鳴周波数の付近の音も共鳴することを意味しているため、ある程度音色も違ってきます。)音色は高調波の数とその振幅に関係した特性ですので、共鳴周波数がいくつあるか、またそのそれぞれのQ値がいくつなのか、が重要です。しかしながら、特に管楽器は共鳴周波数毎にQ値をコントロールすることは不可能に近いと思います。また、撥弦楽器や擦弦楽器においても、一つや二つの周波数ならいざ知らず、いくつもの共鳴周波数に固有振動数を合わせることは至難の業です。バイオリンのストラディバリウスが貴重なのはこの辺の技の凄さにあるのでしょう。いずれにしても、楽器は音の共鳴現象を利用したものであり、楽器を製作する上で最も考慮すべき事項であるとともに、もっとも厄介な代物です。なお、管楽器の管部や弦楽器の胴部のような共鳴器は、別の見方をすれば、共鳴周波数以外の音波を遮蔽する狭帯域フィルターとも考えられます。このように考えると、管楽器のマウス部で発生した雑音が、管部の狭帯域フィルターを通過する際、共鳴周波数のみが通過したと考えてもよいと思います。このように考えると、楽器とは、雑音の中から、心地よい周波数の音を狭帯域フィルターで選択する機器であると言えるかもしれません。なお、ここまでの話では、音のはじめの部分(立ち上がり部分)については何も考慮していません。実は立ち上がり部分は連続した多くの周波数の音を含んでいます。この点に関しては別途ふれたいと思います。
9、ギターについて
ギターは楽器の中でも、かなり苦難な歴史を辿ったようです。かの有名なストラディバリもギターを作ったようですが、バイオリンのような名器にはならなかったようです。(現在4台存在するそうですが、実際には弾くことができないそうです。)これは音量が小さかったからのようです。アコースティックギターの胴部が大きいのは音量を確保するためです。擦弦楽器は弓が引かれている間、弦は振動し続けますが、撥弦楽器は、弦が指で弾かれた後、弦の振動は空気抵抗と弦自体の伸縮運動によってすぐに減衰してしまいます。よって減衰を小さくし、しかもより共鳴を鋭くしなければ大きな音が出ません。現在エレキギターがこれほどまでに多用されるに至った原因は、ひとえに音量の改善にあるといえます。エレキギターは当初、あまり歓迎されなかったようです。ギブソンがレスポールにソッポを向いた話は、あまりにも有名です。しかしながら現在、エレキギターは少なくともポップスの世界では無くてはならない楽器です。また、楽器の原理を理解する上でも、また楽器に求められる性能を知る上でも、ギターは有用な楽器だと思います。ギターは弦が振動して音を発生します。多分、そのルーツは弓矢の弓にあるかもしれません。ギターは最も単純で透き通った音を出すことができます。弦はなぜこのような振動をすることができるのでしょうか?弦を弾くと、はじめはいろいろな振動数で横波が弦の両端を往復します。(縦波もあるが振動数は横波よりもはるかに高く、実際にはあまり重要でない。)この弦の両端を往復する波の中で、両端で多重反射した波の位相が一致した波(共鳴波)が残り、他の振動数の波はすぐに消えます。この共鳴波の周波数は弦の長さ、質量、張力によって変化します。そしてこの共鳴周波数は基本振動数の整数分の1の高調波を伴います。ギターの場合は、弦の整数分の1の長さのところを軽く触れて演奏するハーモニックス奏法で、この高調波音を聞くことができます。通常の奏法では基本振動数が最も振幅が大きく、したがって大きな音が出ます。この基本振動数では弦の長さ方向の中心が最も振幅が大きくなります。ところで、この振動は上下動でしょうか、それとも左右動でしょうか?或いは回転運動になるのでしょうか?まず、横方向については、すべての方向で同じ振動数になると思われます。弦は長さ方向に直角となるすべての方向に自由に振動することが可能です。では、回転運動については、その方向における力が作用しないので、無いと考えても良いでしょうか?ここでリサージュ曲線を思い出す必要があると思います。直角方向の二つの振動が重なると、見かけ上の回転運動が生じます。要するに、弦自体は一次元の単振動ですが、二次元の振動として扱う必要があると思います。ギターの弦の振動をいろいろな方向がら観測すれば、すぐわかります。そして、この振動の方向が奏法によって変化するものと思います。特にエレキギターのピックアップは磁気的な信号を検出するため、どの方向に弦が振動するかによって検出信号の形(基本周波数は同じ)が変化します。これが音色の違いとなって現れると思います。実際にエレキギターの音をFFT(高速フーリエ変換)で周波数解析すると、基本振動数より少し低周波領域に小さなピークが現れることがあります。これがアンプの歪なのか、他の回路特性によるものなのか分かりませんが。さて、エレキギターの場合はアンプやエフェクターといった電気機器についても考慮することが必要だと思います。無論、演奏技術や奏法が重要であることは他の楽器と同じですが、エレキギターの場合はその周辺機器の違いによって性能が大きく変化し、さらに同じ楽器とは思えないほど音色が変化します。このことが、エレキギターが多用される一つの原因であると思います。静かな曲、激しい曲、楽しい曲、悲しい曲、恐い曲、不思議な曲など多くの曲にマッチした音を出すことが可能です。しかも電気的な技術によって簡単に出せます。ただし、ここで問題が生じます。単に音楽を聴くと言うことでみれば、電気的に作られた音なのか、弦から直接出た音なのかは問題になりませんが、演奏者の技術的なテクニックを云々する場合は、そうはいきません。機械式の楽器は電気的な知識を必要としませんが、電子楽器はむしろ電気的な知識の方が重要になると思われます。無論、奏法も重要であることには変わりありませんが、フィルターやアンプ類、さらにMIDI機器などの操作の方がより重要と思われます。ただし、近年の電子楽器はかなり簡単に操作ができるため、技術的な困難さはかなり軽減されてきていると思います。よって、演奏者が電子機器に対する知識を多く持つ必要はないかもしれません。楽器は音を出す器具です。人の心に響く音を出す楽器が、優秀な楽器であるといえます。そこに電子技術が関与するかどうかは、演奏家にとって重要なことであっても、視聴者にとって重要な問題ではありません。
10、ドラムについて
ドラムなどの打楽器は一般的にパルス状の音波を発生します。減衰が非常に早いため、音の強さは認識できても、その音程まではなかなか認識することが困難です。この理由の一つが「パルス状」である点にあります。音の発生時(音波の立ち上がり時)は多くの連続的な周波数の音が含まれます。そのため音の継続時間が短いと、その音の発生時の影響を強く受けるため、音程の認識が困難になります。ちなみに立ち上がり時間が0秒である理想パルスは0から無限大までの周波数を含んでいます。さらに、スネアーやタムなどのヘッド(膜部)の振動を利用した打楽器は二次元の振動をするため高調波が倍音にはなりません。このため非常に多くの音高を持った音が混ざり、ますます音程の認識が困難になります。ただし、膜の二次元の振動はでたらめではありません。高調波は倍音ではありませんが、ベッセル関数で表される一定の規則に従っています。このことがドラムのチューニングでは重要かもしれません。私はあまりドラムのチューニングには詳しくありませんが、ドラマーから聞いた話によると、スネアーやタムのヘッドはトップとボトムの両面にありますが、このトップとボトムの張り具合によって種々のチューニングを行っているようです。トップとボトムの張り具合を同じにしたり、トップを高めにしたり低めにしたり、いろいろと変えているようです。そして、この張り具合の組み合わせによって、トップの基本振動数の倍音関係になる振動数でボトムが共振するようにチューニングする方法があるそうです。そのようなチューニングをすると非常に響きが良いそうです。ただ、ドラムの最も重要な機能はリズムを刻むことなので、音色に絡むようなチューニングよりも、リズムに重きを置いたほうが良いと思います。どのようにしたら良いかはよく分かりません。さて、ドラムセットには、ドラム以外にもシンバルなどがあります。シンバルはやはりジルジャンが最高だそうです。なぜ、トルコで最高のシンバルが製作できたのでしょうか?創業者はアルメニア人だそうです。アルメニアは宝飾品の加工などに優れているとのことで、その技術が生かされたのかもしれません。ジルジャンのシンバルは手作りだそうです。手作りだから良いとは限りませんが、ストラディバリのように職人技というのは時にとんでもないものを作り出すことができると思います。機械は同じものを量産することに優れていますが、「とんでもないもの」を作り出すことはできません。もっとも、いくら「とんでもない」楽器であっても、それに見合った演奏者でなければ「とんでもない」音はでません。よって、私は手作りの楽器を持つ必要はありません。
11、オクターブについて
オクターブとは、と聞かれれば、基本周波数の2、4、8…倍の周波数ということになります。でも、なぜオクターブという特殊な周波数で同じ音と認識するのはなぜでしょうか?なぜ単純に周波数が高くなるにしたがって音が高くなるように認識しないのか、誠に不思議です。これが耳の構造によるものか、脳の認識の仕方によるものか、その両方に起因するものなのか、いずれにしても、そのように認識した方が都合がよいことがあるのだろうとおもいます。光の場合は、3つの周波数を認識し、その強度の違いを色や明暗として認識します。音は連続的した周波数のある限られた範囲を認識し、音高、音色、音圧(大きさ)などとして認識します。そのように認識すれば、現在の地球環境で生存するに十分な情報が得られるのでしょうか?多分、光にしろ、音にしろ、より広範な周波数範囲を認識できる方が有利なのではないでしょうか?たとえば、もし人間が紫外線やガンマ線などの高周波の光を検知できるならば、それらからの障害を避けられると思います。でも、光の場合は周波数範囲があまりにも広範囲であるため、より広い周波数範囲の光を検知するため、連続ではなく、3つのとびとびの周波数(赤、緑、青)を検知し、認識できる周波数範囲を広げているのでしょう。そして、音の場合は「オクターブで同じ音と認識した方が音の検知周波数範囲が大きくなる」としたら納得できるのではないでしょうか?ここで、一般的に電流や電圧などの検出装置の検知範囲を広げる方法としてレンジ切り替えがあることが思い出されます。超伝導量子干渉計などの特殊な検出装置でない限り、検出装置のダイナミックレンジは20dB程度しかありません。検知範囲を広げるにはレンジを切り替える必要があります。すなわち、音の場合はオクターブでダイナミックレンジの切り替えが行われているとしたら、如何でしょうか?このように考えれば、オクターブで同じ音と認識することが非常に合理的に思えます。でも、このようにしても、20Hz以下の低周波や20kHz以上の高周波は検知することが難しくなるようです。そのような検知可能周波数の限界に近づくにしたがって、オクターブの感覚が周波数をより高め、あるいは低めに認識するようになるそうです。たとえば、ピアノを調律する場合、音高が高くなるにつれて、計算された周波数より高めの周波数にし、また音高が低くなるにつれて、計算された周波数より低めの周波数に調律するそうです。検知可能周波数の限界に近づくにつれて、感覚的な音高が計算された周波数より低く、あるいは高く認識されるようになるわけです。すなわち、そのような検知可能周波数の限界に近づくにしたがって音の周波数の違いを認識できなくなるわけです。でも、このレンジ切り替えは音楽を楽しむという点では、あまり好ましくないようにおもえます。もしド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、の次がドではなく、「ク、メ、ト、…」とか、要するに「ド」でないなにかが続くとしたらどのような音楽の世界になっていたでしょう?和音にしろメロディーにしろ、もっともっと多彩になっていたことでしょう。きっともっともっと音楽は楽しいものになっていたことでしょう。こんなことを考えても何の得にもならないとお考えでしょうか?そんなことはありません!将来(遠い将来?未来?)人間の耳や脳がより進化し、音の認識能力が向上した場合、ダイナミックレンジが幅広くなるかもしれません。そのようになれば「ド」から「ド」までを1つのレンジとしなくてもよいかもしれません。たとえば2オクターブまでが1つのレンジとなるかもしれません。また、周波数の分解能力が向上すれば、半音ではなく1/4音の音階が楽しめるようになるかもしれません。(トルコやインドなどの民族音楽では現在でも1/4音が用いられているようです。)ただし、それは今から1万年後、あるいはそれ以上の時間が必要かもしれません。なにせDNAが変化しなければならないのですから。そして、そのような人間はもはや人間ではないかもしれません。したがって、この話題はどうでもいい何の得にもならない話題ですね、やっぱり!長々と記述しまして申し訳ありませんでした。
12、コード進行について
コード(和音)は、周知のようにいくつかの音が組み合わされたもので、基本的にはメロディーの音を含んでいます。したがってコードはメロディーと共に変化します。この変化をコード進行といい、コードとコード進行を合わせたものが和声(ハーモニー)と言われています。したがって、メロディーがでたらめに進行しない以上、コードがでたらめに進行するはずはありません。(もしかしたら、逆かもしれない!)よって、コード進行を考える場合、まずメロディーにおける音高の進行を考えなければならないと思います。さて、メロディーが音高を「でたらめ(ランダム)」に並べたものではないことは周知の事実です。ではメロディーの音高は、「でたらめ」でなく、「規則にしたがっている」ということでしょうか?でも、「規則にしたがっている」にしては、あまりにも多くのメロディーがあります。したがって、その規則はかなり「ゆるい規則」であるとおもわれます。さて、メロディーは一般的に1〜2オクターブ程度の音高の範囲を周期的に上下します。そしてこの周期の変化がメロディーを構成します。よってこの「周期」がどのように構成されているかが、メロディーの規則といえると思います。このような周期的な構造を持った信号(音)の本質を考察する場合、そのスペクトルを解析することが有効な手段であると思われます。スペクトル解析ではフーリエ解析が一般的に用いられています。そして、比較的美しいといわれた楽曲のメロディーのフーリエ解析では、パワースペクトルが「1/fゆらぎ」を持っていることが解析されたとの報告があります。fは周波数を表し、nはほぼ1程度だそうです。(nが0に近づくにしたがって、信号がランダムであることを示し、nがより大きくなるにしたがって信号が単周期に近づき、ある音と時間的に離れた音との相関が強いことを示します。ちょうどnが1程度の場合、大きなうねりの中に小さな波が存在するような信号となります。)このような1/fゆらぎをもっているメロディーは音高がゆるやかに変化することを意味します。すなわち、メロディー内のある音Aからかなり離れないと音高が音Aの影響から開放されないことになります。そしてそのような場合、その音Aの規制が小節間を跨って存在することになります。コードは一般的に1小節か半小節内の音を規制しますが、小節を跨って規制が存在するため、コード間でも規制が存在することになります。そして、あるコードとその前後のコード間は規制が強く、そこから離れるにしたがって、規制が少なくなると考えられます。(規制がどの程度になるかは自己相関係数を求めれば解かる。)一般にコード進行は4小節または8小節(1楽節)単位で扱われますが、このような単位であつかうことによって、そのような周期構造ができ、心地よい「1/fゆらぎ」を構成することができるものと思われます。古典的な和声学では、4小節または8小節内のコード進行はトニック、ドミナント、サブドミナントの組み合わせが基本となり、トニックに始まりトニックで終わるように構成されます。ここで、「トニックに始まりトニックで終わる」ということはメロディーの位相に関する規制が存在することを意味します。例えばハ長調の曲ではC、G、F、の組み合わせとなり、Cから始まりCで終わります。したがって、4小節または8小節で、位相が0°から始まり180°(または360°)進む波が存在することになります。また、サビ(例えばF)から始まるような曲は45°とか90°程度(曲の構成によって異なる。)位相がずれて進行することになります。そしてその間でC、G、F以外に平行調であるAm、Em、DmやBm♭5、またG、Fからのドミナントモーションやサブドミナントモーション、さらには、これらのテンションコードなどが適宜使用され、より波長の短い波が作られることになります。これらの波長の短いメロディーの起伏は、長周期の起伏に比べて小さいことが「1/fゆらぎ」の特徴です。なぜ、トニック、ドミナント、サブドミナントの組み合わせが良いのかはよく分かりませんが、ドに対してソが3倍音であり、オクターブと共に、平均律の基本となる音であることが関係しているかもしれません。音響の世界では基本的に「共鳴」という現象が最も基本となると思います。耳の構造と神経系統に関する詳細な知識はありませんが、ある音が共鳴状態にあるとき、その高調波は同じ部位で共鳴すると思われます。ある音に共鳴した蝸牛の部位に接続する神経が活性化した場合、その高調波に対しても活性化するであろうことは容易に想像できます。ただし、音感は生まれつきの部分もありますが、後天的な要素もかなり大きいと思われますので、耳や脳の構造だけでは説明できないと思います。特にコード進行は後天的な要素を多く含んでいるような気がします。よって、今後も新しいコード進行が生まれてくるのではないでしょうか。音楽も他の文化と同様にいつまでも同じ場所にとどまってはいないと思います。音楽や文化の発展も、きっと「1/fゆらぎ」をもっているのでしょう。前進したり後退したりして、ゆっくりと発展し続けると思います。コード進行も現状のままで良いはずはないと思います。ではどのようなものが良いのでしょうか?私は現在それを探求していますが「いまだ解を得ず、以って研鑽中」です。ただし「1/fゆらぎ」という音楽の構造は、そう簡単には崩れないと思います。なぜならば、多くの事象がお互いに相関をもって進行するからです。ただし、「カオス」については一度検討する必要があるかも知れません。なぜならば、「カオス」も多くの事象において存在する現象だからです。もしかしたら、ここから新しいコード進行が生まれるかもしれません。
13、音楽と遊びについて
英語では子供が追いかけっこをすることも、大人がスポーツをすることも、また楽器を演奏したり、役者が演技をすることも「play(遊ぶ)」と表現します。享楽的な意味では「amuseやenjoy(楽しむ)」が使用されるようです。日本語では「遊ぶ」は、子供が追いかけっこをすることにも使用されますが、職業についてないでぶらぶらすることや、釣りをしたり、旅行をしたり、要するに「労働」から離れて楽しんだり、無目的な行動をすることを意味し、かなり享楽的な意味が含まれていると思います。状況によっても違いますが、日本では「楽器を演奏する」ことを「楽器で遊ぶ」とは表現しません。日本では「楽器を奏でる」と言います。「奏」という字は「天子に申し上げる」という意味があることから、儀式や宗教的な意味合いが含まれているように思われます。楽器は古来から呪術や宗教的な儀式などで演奏されたため、そのような場合に用いられた横笛や琴などはある意味「神聖」な道具であり、平敦盛(笛の名手)の話などから類推するに、それを演奏することは「崇高」な行為であるように思われていたと思います。しかしながら、楽器の演奏自体が「崇高」な行為と思われていたわけではないと思います。私はある大正生まれのおばあさんから、次のような話を聞いたことがあります。ある時、母親に三味線を習いたいと言ったところ「乞食のような真似をするな!」と言われたそうです。確かに、津軽三味線などの話を聞いても、嘗て三味線は高尚な楽器とは見做されてなかったようで、三味線を演奏することは「崇高」な行為と思われていたわけではないようです。これは楽器の種類というより、演奏される音楽の種類の違いからくるもので、いわゆる「クラシックとポップスの違い」と同じようなことだと思います。そして音楽の「遊び」的な面は、嘗ての三味線の演奏のように、儀式的なものから離れた音楽にあると思います。一般の人々の生活がより豊かになるにつれて、音楽も儀式的で崇高なものから離れて、より享楽的なものを生み出したのではないでしょうか。そしてこのような音楽こそが現代のポップスに通じる音楽であり、楽しさや面白さのある「遊び」としての音楽ではないでしょうか?でもここまでの話は、儀式的で崇高なものは「遊び」ではないということになります。でもここで、オランダのホイジンガ氏の「ホモ・ルーデンス」という著書を読んでみると、なんと「文化」と「遊び」が密接に関連していることが記述されています。より正確には「文化」が「遊び」と共に形成されてきたと記述されています。「ホモ・サピエンス」は「知恵のある人」という意味ですが、「ホモ・ルーデンス」というのは「遊ぶ人」という意味だそうです。つまり、「知恵」=「遊ぶ」ということを意味すると言っているのです。そのような意味では儀式的な崇高な演奏も三味線の演奏も、すべて「遊び」の要素があり、さらに人間の「知恵」が関与することに対して「遊ぶ」ということがかなり重要な要素として作用することが記述されています。要するに「文化」のみならず「文明」も「遊び」の要素があるといっても良いかもしれません。ここで一応、「文化」と「文明」の違いに触れたほうが良いかもしれません。「文明」は「知恵」の中でも技術的な面が強調され、「文化」は「知恵」の中の精神的な面が強調された言葉で、いずれも「知恵」の一部を示していると思います。したがって、「文化」の中には音楽、彫刻、絵画、演劇、舞踊など芸術や文学に関連したものや、哲学や宗教に関連したものなどが含まれると思います。(スポーツも「文化」の範疇に入るかもしれません。)また、「文明」は農業や工業、医学など科学、技術に関連したことや、法律や経済などの制度に関連したことが含まれると思います。(でも、文化と文明はあまり明確に区別されている訳ではありません。)ではこの文明に「遊び」の要素があるのでしょうか?ここでノーベル賞物理学者の朝永振一郎先生の著書である「鏡の中の世界」(講談社)という本を思い出します。ある時、先生を含めた数人の物理学者が「鏡に映っている自分の像が左右逆転しているのに、上下が逆転しないのはなぜか?」ということを議論したそうです。「心理的な作用である」など、いろいろの意見がでたそうですが結論はでなかったそうです。その後、リー教授とヤン教授は「鏡像は回転が反転する」ことを利用して「パリティの対称性の破れ」を理論的に予測し、ノーベル物理学賞を得たとのことで、朝永振一郎先生は自分達の鏡の議論が「パリティの対称性の破れ」に結びつかなかったことを残念に思ったと記述されています。つまり、物理学も「遊び」の議論が基になって、ノーベル賞級の発見に結びつくことがあるということです。いや、多分、人間の創造性は本質的に「遊び」の心に由来するのかもしれません。日本語の「遊び」という言葉の意味の中に「歯車の遊び」などのように、「余裕」を表す使い方があります。人間は常に「真面目」(ホイジンガ氏によれば「遊び」の対義語として用いている)でいることはできないのではないかと思います。生物は自然の中で生命を維持するため、常に緊張を強いられます。しかしながら、緊張のみでは生命体の化学反応が一方向に進むため、平衡状態を保てないのではないでしょうか?生物が生命を維持するためには平衡状態(バランス)を保つことが必要であり、このために緊張を解きほごす「遊び」すなわち「余裕」が必要になるのではないでしょうか?そしてそのための最も良い「遊び」が「音楽」ではないでしょうか?(これはちょっと我田引水!)釣りでもスポーツでも読書でも、各人が好きなことをやればよいのですが、できれば複数の遊びに通じることが良いと思います。なぜならば、遊びの種類によって、人間に対する作用が異なるからです。この点に関しては、カイヨワ氏の著書で「遊びと人間」に詳述されています。カイヨワ氏によれば遊びを「アゴン(競争)」、「アレア(運)」、「ミミクリ(模擬)」、「イリンクス(めまい)」に分類しています。つまり、遊びにはそのような基本的な動機が存在すると言っています。例えばスポーツは「アゴン(競争)」、音楽は「イリンクス(めまい)」、演劇は「ミミクリ(模擬)」という欲求に答えるものであるといっています。無論それらは主な動機であって、スポーツには「アレア(運)」の側面も見られます。ただ、ある一つの遊びが人間のすべての緊張を解きほごすものではないということです。どのような遊びを選択するかは自由ですが、できれば「アゴン(競争)」、「アレア(運)」、「ミミクリ(模擬)」、「イリンクス(めまい)」のすべての要素を含んだ遊びを選択したいと思います。現在私は釣りと音楽「イリンクス(めまい)」と映画「ミミクリ(模擬)」で主に遊んでいますが、「アゴン(競争)」と「アレア(運)」が不足していると思っています。(釣りには「アレア(運)」の要素はありません。念のため。)そこで今年から「アレア(運)」の不足を補うべく、「宝くじ」に挑戦したいと思います。3億円獲得をめざして!なお、私は「アゴン(競争)」はあまり好きではありません。よって、今後も「アゴン(競争)」に関しては追求しないことにしています。
14、音楽と釣りについて
私は釣りが趣味の一つです。「何が面白いのか?」と聞かれても、本当のところ、わかりません。魚が針にかかって、糸が張り、竿が撓り、魚が逃げようとするのを阻止することがなぜ面白いのか?人間の狩猟本能?人間の残酷性?見方によっては「魚いじめ」ともいえるかもしれません。ただ自分でも不思議なのですが、私はルアーとかフライなどの所謂スポーツフィッシングはあまり好きではありません。(たまに、バス釣りに行く程度。)海での釣りがほとんどで、しかも船からの釣りではなく、磯や堤防でのチヌとメジナ釣りがほとんどです。もちろん季節によっては、アジやキス、アイナメなどを釣ることもあります。しかしながら、8割以上はチヌとメジナ狙いです。しかも浮き釣りです。明確な理由があるわけではないのですが、釣りは浮きがないと面白くないのです。私にとって、最も面白く感じる時は、魚が針にかかって、浮きが沈む瞬間なのです。まさにこの瞬間が「イリンクス(めまい)」なのです。でもこの瞬間は容易に訪れません。朝から晩まで浮きとにらめっこをしていても、その瞬間が一度も訪れないことがあります。ただこの待っている間が面白くないのかというと、そうではありません。磯釣りのもっとも良い点は、「海の音楽」が聞けることです。釣りは自然との対話を楽しむ最も良い手段だと思います。中国の太公望は、真っ直ぐな釣針で釣りをしながら、仕えるべき大人物を待っていたそうです。要するに、太公望にとって、釣りは本来の目的ではないのです。自然の流れの中に「道」を見出すことなのです。老荘思想における最も重要なことは「道を体得する」ことなのです。(「道」については、別途記述したいと思います。)もちろん、私は太公望と違い(細公望?)、針は真っ直ぐではありませんし、いつも魚が釣れることを望んでいます。でも、魚も釣られることを望んではいないと思われるので、したがって、めったに釣れません。でも退屈することはありません。なぜならば、「海の音楽」が聞けるからです。「海の音楽」は「川の音楽」に比較して低音が効いて、より勇壮です。特に岸壁が高く、水深のある入り江ではドラムのキックより低音のズッドン、ズッドンというリズムが聞こえ、そしてザザザ…、ズズズ…、ピシャンなどが続きます。ほぼ同じようなテンポですが、微妙にずれてます。目を閉じてズッドンの次に再びズッドンとくるのを予想するのですが、結構難しいです。たまに、目を閉じているときに浮きが沈むこともあるので、あまり長くは目を閉じていられないのですが、春の暖かな日などは結構眠くなるので、目を閉じてズッドンの予想をし、それが当たるかどうかで、その日の運勢を占ったりしています。(このために釣果が上がらないのかもしれない。)しかしながら、この「海の音楽」が夜になると一変するのです。千葉県房総半島の先端に白間津というところがあります。千葉県では第一級の磯釣り場です。「遠矢浮き」という磯釣り用の浮きを発明した遠矢氏の住居があることでも有名です。この付近に布良というところがあり、布良星が見えるところとして有名です。布良星は星座表にはカノープスと表示されており、南の空に輝く竜骨座のα星です。中国では寿老人星といいます。水平線すれすれに見えるため、日本では観測できるところが少ないようです。そして、この星には、海で死んだ猟師の霊がうっすらと輝いているという伝説があります。このためなのかどうかわかりませんが、夜の白間津の磯の音楽はとても不気味です。私は、時々ここで夜釣りをします。昼過ぎから夜10時頃までですが、夜も8時を過ぎると釣り人はほとんどいなくなります。電気浮きの赤い光が波間にポカリポカリと漂い、頭につけたヘッドライトの光が白波に反射し、時々その光の中に人の顔が見えるような気がします。この頃になると、昼間はズッドンの後、ザザザ…、ズズズ…としていた音楽が、ズッドンの後、「だれだ、だれだ」とか「何だ」とか、その後に訳の分らない話し声のような、あるいは歌のような音が聞こえてきます。それもかなり大声なのです。ギョッとして背後を振り向くのですが、誰もいません。私がこのような夜の海の恐ろしさに満ちた音楽に絶えられる限界が10時頃までなのです。(まことにダラシがない!)また、海からの音楽はこのようなものだけではありません。砂浜に打ち寄せる波からの、もっと静かな音楽や、風の強い日の海鳴りなど、海は色々な音楽の作曲家です。(海鳴りは「津軽海峡冬景色」の中で「…誰も無口で、海鳴りだけをきいている…」と歌われていますが、実際に聞いたことのある人は少ないのではないでしょうか?2012年1月19日放送のTVK番組の「探偵!ナイトスクープ」で海鳴りを放送していましたが、実際はもっともっと迫力があります。)自然が奏でる音楽は、海からのみならず、森や田んぼ、畑、川などからたくさん聞こえてきますが、私は海からの音楽が最も魅力的だと思っています。そしてそれらはまた、何時、何処で、どのような状況下で聞くかによっても、まるで違った印象を持つものだと思います。海からの音楽は周期的ではありますが、多くの雑音を含んだ音から構成されています。しかしながら、時間や天候、風力、海岸の状況などの外的な状況や、それを聞いている人の感情などによって、心地よくも、悲しくもまた恐ろしくも聞こえ、また、ただの雑音にも聞こえるものだと思います。もちろん、このようなことは、海からの音楽に限らず、すべての音楽に言えることかもしれません。どれほど楽しい曲であっても、どれほど感動的な曲であっても、外的な状況や、それを聞いている人の感情などによって、怒りが込み上げたり、悲しみが湧いてくることさえあります。ですから、もし楽しい曲を聴いて楽しいと思い、感動的な曲に感動できたならば、あなたは現在、幸福である証拠だと思います。海岸で釣りをしている人や海水浴を楽しんでいる人の中に、ラジオを聞いている人がいますが、せっかく海に来たのだから、海からの音楽を楽しむことをお勧めいたします。きっと良い音楽が聴けると思います。できれば真っ暗な夜中に一人で!
15、音楽の分類について
人は分類好きであると思います。音楽に限らず動物、植物、衣、食、住、趣味、学業、職業などなど、とにかくなんでも分類します。音楽などの芸術的な分野の分類は特に「ジャンル」(フランス語)というようです。そして、分類さえすれば理解できたと思うのであります。私もその一人で、分類したり解析したりして、分ったような気分になっています。しかしながら、いざ分類をしようとすると、それが実に難しい作業であるということが判明いたします。特に音楽は、嘗て楽曲が少なかった時代には楽曲の形式や地域などで比較的分類がしやすかったのですが、今日のように多くの楽曲が作られるようになると何に基づいて分類すると良いかが問題なのです。楽器?地域?時代?リズム?メロディ?ハーモニ?音色?形式?作曲家?歌手?服装?演奏態度?レーベル?宗教?などそのいずれによっても可能ですが、そのいずれによってもあまり意味がありません。例えば、演奏する楽器で分類した場合、同じ楽器で違った音楽が演奏できます。また、民謡などの過去の曲ならいざ知らず、現代の音楽を地域で分類するにはあまりにグローバル化しすぎていると思います。また同じ時代に違った音楽が作曲されていることは周知の事実です。でも、CDショップに行くと、実に見事に「分類」されている(いるような気がする?)のです。クラシック、ジャズ、ロック、Jポップ、歌謡曲、民謡、ヒーリングなど、なんとなくそれらしい曲が並んでいます。でもクラシックとはどのような曲なのでしょうか?ある記述によれば、「狭義のクラシックはベートーベンやモーツァルトのような古典派の作曲家の曲であり、広義のクラシックは芸術的な西洋音楽である」とのことです。要するに、ジャズ、ロック、Jポップなどは芸術的ではない西洋音楽ということになります。「芸術的」ということは「簡単に習得したり理解したりすることができない領域の技術、思考」を指すようです。(だから、時にはジャズもクラシックの一つと言っている人もいるようですが、ほんとですか?)でも、ヨハンシュトラウスとベートーベンの曲が同じカテゴリに属するのは如何なものか、と考えざるを得ません。(ヨハンシュトラウスはポプスに分類する人もいるようです。)次に、ジャズはどうでしょうか?ジャズは西洋音楽とアフリカ音楽が合体してできた音楽とのことです。でも、ニューオリンズジャズとモダンジャズやフュージョンが同じカテゴリに属するというのも、なんとなく納得がいきません。では、マトリックスで分類したらどうでしょうか?例えば、横軸に楽器、縦軸に地域とでもしたらどうでしょうか?でもこれでは、時代やリズムなど他の要素が無視されます。では次元を増やしてみたら?それは多分無理です。なぜならば、3次元以上の多次元では、複雑で分りにくく、また記述する方法もないでしょう。(もしかしたら多次元のテンソルで表示できるかもしれません。でもそれを理解できる人は多くはいないでしょう。)でも、CDショップで曲を探すときクラシック、ジャズ、ロック、Jポップ、歌謡曲、民謡、ヒーリングなどの分類は実に便利なのです。これは納得できるかどうかの問題ではないのです。「分類」することの本来の意義は、それを分析したり、探求したり、理解したりするのに都合がよいことが原則ですが、CDショップで曲を探すために都合が良いということも非常に重要なことです。膨大な数の楽曲が、題名のアイウエオ順に並んだだけでは選択のしようがないのです。クラシック、ジャズ、ロック、Jポップ、歌謡曲、民謡、ヒーリングなどを大分類とし、更にその中を中分類、小分類としておけば便利です。そして、そのどれにも当てはまらないものは「その他」とするのです。でも、それらの中身は実に複雑であり、相互に干渉し合って、音楽の全体が成り立っているようです。要するに、音楽においては演奏家や歌手、作曲家一人云々が違った個性を持っており、違うカテゴリに属すると言ってもいいかもしれません。私が分類すると、どの曲も「その他」に分類しそうです。でもそれでは理解が深まりません。そこで、同じ曲が違う分類に属する3曲について考察してみたいと思います。その一つが「襟裳岬」です。この曲は吉田拓郎氏(Jポップ、この曲を作曲)と森進一氏(歌謡曲)がレコーディングしています。この2曲の違いは「リズム」と「節回し」です。またもう一つはビートルズの曲です。彼らの曲は多くのミュージッシャンが違ったジャンルの曲にアレンジして演奏しています。カウントベーシーがイエスタディをジャズ風にアレンジしていますが原曲との最も大きな違いは、やはりリズムです。また、A Hard Day's Nightをゴールディ・ホーンがジャズ風に歌っていますが、やはりリズムが最も大きな違いと思います。(勿論、コードもテンションが多く使用されています。)やはりジャズの特徴は「リズム」にあると思います。「リズム」こそが曲の感覚的な面を支配する最も重要な要素のような気がします。そこで、「リズム」で分類したらどうかと思いますが、あまりにも種類が多すぎるような気がします。特に最近のリズムマシンの作るリズムの種類は半端ではありません。やはり、音楽は演奏家や歌手、作曲家一人云々が違った個性を持っており、違うカテゴリに属すると考えた方が良いと思います。(要するにバラバラ!)なぜならば、演奏家や歌手、作曲家一人云々が、その個性を誇示しようと努力するからです。やはり、最終的に好きなCDを探すのなら演奏家や歌手、作曲家などで探索するのが最も良い方法ではないでしょうか。更に、同じ演奏家や歌手、作曲家であっても、好きな曲と嫌いな曲があるので、最終的には、個々の「楽曲」そのものが1つの分類になる?(要するに分類できない!)したがって、ロックが好きな人やJポップが好きな人も、CDショップの違った分類(クラシックや歌謡曲など)の曲を聞くことを勧めます。なぜならば、クラシック、ジャズ、ロック、Jポップ、歌謡曲、民謡、ヒーリングなどの分類は、CDショップで楽曲を陳列しやすくするためのもので、それ以上でも、それ以下でもないものだと思うからです。(要するに、私には音楽を分類する能力や知識がないのです。悪しからず!)なお、音楽の種類が多くなっていることは、その分音楽が発展している証拠ですので、歓迎されるべきことだとは思いますが、しかしながら、もし音楽の種類に熱力学的なエントロピー(状態の数)が存在するならば、エントロピー増大の原理に従って、やがて音楽は混沌とした状態になってしまいます。いつの時代になるか分りませんが、音楽に対するなんらかの分類や集約が必要になるかもしれません。「1、鑑賞すべき音楽」「2、鑑賞した方が好ましい音楽」「3、鑑賞してもしなくても良い音楽」「4、鑑賞しない方が好ましい音楽」「5、鑑賞すべきでない音楽」という集約方法はいかがでしょうか?でもそのように集約すると私の楽曲は5に集約されそうなので、そのような集約は20年以上後に行っていただきたい!
16、音楽と音について
音楽は音の一部であることは多分確かなことだと思います。でも近年(といっても50年以上前)は音のすべてが音楽であるかのごとく主張されているような感があります。ジョンケージの「4分33秒」という曲に至っては「無音」も音楽と捉えているのです。確かに楽曲において休止は非常に重要なものです。しかしながら、楽曲のすべてにおいて休止(無音)となると、私のような常識人(自分ではそのように思っている)にとっては理解し難い音楽の概念と言わざるを得ません。(「4分33秒」という曲は演奏会場の所謂「雑音」を聞くのだそうです。本当の「無音」状態は無響音室のような環境が必要になります。)でも確かに、ある種の音についてそれが音楽の範疇なのか、そうでない(雑音)かは、実に難しいように思われます。鳥のさえずりは音楽の範疇かもしれません。犬やネコの鳴き声、狼の遠吠えなどは、どちらとも言えません。海の波の音や川の流れの音などの自然が奏でる音も人によっては雑音と捉えるかもしれません。車のエンジン音は、どちらかと言えば雑音の範疇に入るでしょうね。(車好きの方は異論があるかもしれません。)ただ、ここで「雑音」について多少検討を加えた方が良いかもしれません。一般的には、雑音は聞きたいと思っている音の周波数以外の周波数の音を示すので、波の音や川の流れの音を聞きたいと思っている人にとって、それは雑音ではありません。ですから、「雑音」も「音楽」と言ってよいかもしれません。しかしながら、物理や電気的な意味での雑音はそれとはチョッと違います。雑音は不規則な周波数や位相を持った信号(音も含まれる)で、大きく、白色雑音と1/f雑音に分けられます。白色雑音はランダム(デタラメ)な雑音であり、1/f雑音はランダムな中にもある種の規則性があるものです。1/fに比例するのは振幅(音高や電圧など)の二乗(パワー)です。規則が存在するということは、現在の信号とそれに続く信号との間に相関があるということです。一般的に、この2つは混在している場合が多いのです。多くの信号は、ある周波数(これは雑音の発生源によって異なる)以上になると、白色雑音が主となり、その周波数以下だと1/f雑音が主になります。この1/f雑音は、低音になるに従って振幅が大きくなるという特徴があります。実はこの1/fという特性は周期構造を持った多くの現象に共通の特性なのです。以前に「コード進行について」の項で紹介いたしましたが、これを「1/fゆらぎ」と言っています。この「1/fゆらぎ」は人間にとって(多分生物全般にとって)非常に心地よい特性なのです。例えば、そよ風、海の波高や小鳥の囀りなどな、非常に多くの現象に「1/fゆらぎ」が存在します。これは多くの現象(特に自然現象)がデタラメに起こっていないことを示しています。過去に起こったことが、未来に影響を及ぼすために「1/fゆらぎ」が存在するのです。これは雑音だけではなく、例えば経済状況など、過去と現在と未来においてなんらかの相関がある現象において観測できます。要するに「1/fゆらぎ」が存在する現象は次に起こるであろう現象をある程度予測できるということです。これに対し「白色雑音」の世界では現象がランダム(デタラメ)に起こるため、次に起こる現象が全く分りません。人間は、次にどのような事が起こるのかがまったく分らないと不安になります。かといって、次に起こることが完全に分ってしまっても、また面白くありません。完全ではないがある程度予測できるような状況を、心地よく感じるのです。このため、人間は1/fゆらぎを心地よく感じるのです。ジョンケージの「4分33秒」という曲が、「演奏会場の雑音」を聞くという「曲?」だそうですが、この「演奏会場の雑音」も1/f雑音と白色雑音から成り立っており、20kHz以下では、おそらく1/f雑音の領域になっているのでしょう。いや、「4分33秒」の演奏者の演奏技術は、演奏会場の雑音が、白色雑音が小さく、1/f雑音が主になるようにできたかどうか、によって評価されるかもしれません。(でも、雑音の発生源は聴衆側と思われるから、指揮者は聴衆に向かって指揮棒を振ることになるのか?)では、人間は白色雑音が嫌いかといえば、そうでもないのです。実は一般的に白色雑音は振幅が小さいので、あまり大きな音にはなりません。例えば、嘗てのLPレコードなどを聞いていると「シャー、シャー」という白色雑音が聞こえてきますが、そのような音が混ざっていた方が良いという人もいます。白色雑音は、ごく一般的に存在します。人間にとって(多分生物全般にとって)本当に不快な音は、爪でガラスを引っ掻く音や、初心者のバイオリンの音など、所謂「不規則音」(非エルゴード的な雑音)と言われるものです。この様な音はその周波数や位相、強さが不規則に変化する音です。白色雑音との違いは、比較的短い時間内で音の周波数や強度特性が変化することにあります。(これに対し白色雑音は、長い時間内でも音の周波数や強度特性は同じです。)このような音は多分音楽の範疇には入らないでしょう。(いや待て!もしかしたら、「不快な音」演奏会もあるかも?)このように、雑音の中でも不規則音を除く、1/f雑音や白色雑音、無音も音楽と言えるのかもしれません。しかしながら、やはり、不規則音を除いたすべての音が音楽となると、やはり音楽家の横暴に思えます。なんら演奏もせずに、ただ座っているだけで結構な入場料を搾取するのはやはりどうかと思います。だから私は、ジョンケージの「4
分33秒」の演奏会には絶対に行きません。(「不快な音」演奏会があったとしても、それにも行きません!)前にも記述いたしましたが、一般的な音楽は、雑音の中からフィルター(共鳴装置や喉など)によって必要な音を取り出す装置(楽器や口など)を用いて、人為的かつ時間的に複数または単数の周波数の音を並べることです。ですから、自然からの1/f雑音や白色雑音、無音などは音楽の範疇には入れたくありません。自然や動物などから人為的でなく発せられる音は、音楽の範疇には入れたくありません。(楽曲は人工的な1/f雑音とも考えられる。)いくら自然から発せられる1/f雑音が心地よいといっても、自然から発せられる音そのものは音楽家が操作できる範疇ではないのです。音楽家の仕事は自然から「音」を学びそれを昇華して「音楽」を作ることではないでしょうか?自然からの音そのものを操作できるのは「神」のみです。(いや待て!近年のデジタル技術は鳥のさえずりなどの自然からの音を作ることが可能であり、更に最近は恐竜の泣き声を作り出すことができるとのことなので、近い将来、いや既に、自然には存在しない想像上の美声をもった鳥のさえずりを作り出すことができているのかもしれません。音に関しては、人間は神の領域に進入しつつあるかもしれない!)ただし、音楽や芸術、文学、科学、技術など文化や文明においては、常に最先端の野心的な取り組みが必要であり、その成果の一部が次の時代を担う文化や文明となってきたことは歴史が証明しています。だから「無音演奏会」や「不快音演奏会」も可なのかもしれません。ただし、最先端の野心的な取り組みに挑戦することは、相当の覚悟を必要とするでしょう。
[追記]不快音について
不快な音は不規則音だけではありません。虫の嫌いな人は、虫の羽音が不快な音になります。(床に就いた時の蚊や食事中のハエの羽音は多分だれでも嫌いだと思います。)隣家の夫婦喧嘩の金切り声や飛行場付近の飛行機の爆音などの騒音も不快な音だと思います。また状況(例えば受験勉強中の学生)によっては、一般的な音楽でも不快な音になります。でも消防車や救急車のサイレンは、ケタタマシイにも関わらず、多分誰も不快音とは感じないと思います。多くの人がサイレンの音を聞けば、危険に対処するためすぐに家を飛び出して、何事があったのかと辺りを見回します。音とは本当に不思議な存在ですね。しかしながら、一般の常識人が何時でも、何処でも、どのような状況においても不快になる音は不規則音です。(「不快音演奏会」が開催された場合、それにお金を出して参加しようと密かに考えている方を除いて。)
17、音楽と味について
山田耕筰氏は「音楽はわかるものではなく、味わうものです」と言ったそうです。日本語では、音楽に限らず、事物を鑑賞する際、よく「味わう」と表現します。ここで言う「味」とは「味覚」ではありませんが、事物の好さを捉えるという意味で、[味]と表現をすることは、他の言語においても、存在するようです。多分、芸術や音楽など、文化的な事物を鑑賞することにおいて、共通の感覚が存在し、それを「味」に代表させることによって、もっともよく表現でき、最もよく意思の疎通ができるものなのだと思います。ところで、味覚には甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の5つがあると言われています。でも、実際には辛味や食感など5つの味覚以外も味覚と言っていいような気がしますし、更に、料理の色や形、臭い、料理を載せる食器、テーブルの形や部屋の雰囲気など、多くの要素が味に関連していると思います。私は、嘗て烏賊の塩辛が食べられない時期がありました。烏賊自体が嫌いな訳ではありません。その形がナメクジのように思えたからです。要するに、舌の味蕾が感じる味がすべてではないことは周知の事実です。では音楽と味はどのように関連しているのでしょうか?一般的には食事をする環境の雰囲気を演出することに関連すると思われます。懐石料理などは雅楽が似合うかもしれません。コーヒー喫茶ではジャズが似合うでしょう。音楽は、その場の状況や雰囲気を表現できる文化です。およそ文化と言えるものは情緒と結びついているものですから、音楽にその能力があることは当然だと思います。ただ、懐石料理と雅楽とか、コーヒー喫茶とジャズを結びつけるものは、音楽の曲そのものではないように思えます。その曲がどのような地域でつくられたか、どのような人々がその曲を好きなのかなど、料理の原産地を連想させるような曲がその料理に似合った曲と言えると思います。映画や演劇などで流される曲は画面の状況や雰囲気に関連した曲調の楽曲が用いられていますが、音楽と味はそれほど直接的な関連はないようにも思われます。でもこれまでも「だんご3兄弟」や「おさかな天国」、「野菜の歌」などの直接「食」をテーマにした歌があり、またAKB48「野菜シスターズ」(これは某社の宣伝)など、食をテーマにしたユニットもあります。このような曲は単なる雰囲気作りとしての意味を超えて、料理や食品のイメージを彷彿させるもので、「食」と「音楽」のコラボと言っても良いかもしれません。最近、テレビの番組の中に「食」をテーマにした番組が多く見受けられます。無論、私たちの関心が「衣、食、住」にあることは当然のこととしても、メタボリックシンドロームが関心を呼ぶ中で、多分番組制作のコストの問題があるのだと思いますが、それにしてもちょっと多すぎるように思います。しかも、内容は「食文化」と言いつつも、なんとなく「文化」とは呼べない、ただ「食するだけ」と思われるような内容の番組が多いような気がします。もちろん、人々の関心が「文化」より「食」にあるということは否定できないかもしれません。「食」は味が良ければ良いのかもしれません。しかしながら、前記のように味は甘味、酸味、塩味、苦味、うま味だけでは決まらないのです。「食」が文化たる所以は味が味覚だけでは決まらないところにあると思います。もちろん、食材の味付けが食文化の基本であることは明らかです。でも、色や形を如何に美しくするか、食感を保つための工夫、器の選定など、同じ食材から如何にしてより美味しい味を引き出すかが「食」を「文化」たらしめる所以ではないでしょうか?このことは、一流の懐石料理や和菓子など美術工芸品のような料理だけではなく、B級グルメや家庭料理などにも言えることだと思います。でもやはり、B級グルメや家庭料理などには「文化」たる雰囲気が乏しいと思えないでしょうか?なんとなく、大食い番組に登場するような雰囲気があるのではないでしょうか?(さてここからが本題です。)そこで提案です。「食」と「音楽」のコラボをもっと大々的に行ったら如何でしょうか?(我田引水であることは承知の上で書いています。)「だんご3兄弟」が「だんご」を文化にしたとは言えないかもしれませんが、この歌が流行した時、だんごがたくさん売れたとのことで、「食」と「音楽」(もしかしたら「詩」?)がかなり直接的に結びついた例だと思います。もちろんこれは、「食物」と「音楽」なので、「味」と「音楽」の結びつきではないかもしれません。B級グルメや家庭料理が、その曲によってその売り上げが上昇したとしても、それが「味」と「音楽」の関係を深めたとは言えないかもしれませんし、またB級グルメや家庭料理の文化的側面を向上させる訳でもないと思います。しかしながら、どのような要因であるにせよ音楽によって団子がより多く食されたことは事実です。「食」にばかり関心をもつ人に、その「食文化」としての側面を認識させることができるならば、作曲家はB級グルメや家庭料理に限らず、一流の懐石料理や和菓子などの曲なども大いに作曲すべきかもしれません。そのようにすれば、「食」の番組も、もう少し楽しめるかもしれません。ところで、実は私は少食なのです。特にアメリカやヨーロッパを旅行した時、そのことを思い知らされます。とにかく、完食できないのです。彼らは、私の3倍は優に食します。ですから、大食漢の彼らは食物そのものでも十分楽しめるのでしょう。ですが、少食である私は食物だけでは十分楽しめません。やはり音楽が必要なのです。ところで、大食漢の彼らが食物から得たエネルギーは、いったい何に消費されるのでしょう?脳に消費されているとは考え難いのですが?もし、余分なエネルギー消費に使われているならば、その一部でもいいから、アフリカなど現在食料危機に喘いでいる国に回してあげられないでしょうか!
[追記]音楽と共感覚について
共感覚とは、音に色を感じたり、他人を見ただけでその人に実際に触れたのと同じ触覚になったりする(ミラータッチ共感覚)ことなどが知られており、すなわちある感覚の刺激がその感覚と異なる感覚を生じさせることを言います。このような2つ以上の感覚が結合する現象は脳の中心部(海馬など)では、誰にでも起こっていることで、その後その感覚が大脳皮質で処理されることによって、音は音、色は色のように通常の感覚として認識されるとのことです。そして、このような共感覚は聴覚と視覚が結合することが多く、味覚と聴覚が結合するような例は稀のようです。無論、このような現象と、音楽によって食が進むこととはあまり関連がないようにも思われます。しかしながら、料理の色や形状によって味に違いが生じることによっても明らかなように、共感覚のような原始的な(大脳皮質で処理される前の)感覚が人に無意識のうちに影響していると考えた方が、感覚が相互に影響し合う現象については理解し易いと思います。今世紀、最も進歩する科学は脳科学だとのことなので、味と音楽の関係もいずれ解明されると思います。
18、音楽と美について
人は「美しい」という言葉が大好きです。どんな者や物や事や状態にも「美しい」という形容詞をつけてハシャギます。また「美しくない」という表現で「愚弄」することもしばしばです。無論、音楽もこの範疇に入ります。でも、なんとなく「美しい」という言葉を拡大解釈しているような、あるいは「権威を示すための道具」として使用しているような気がします。最近のある新聞のコラム欄で、「センス」という言葉で一括することについての「異議申立」が記述されていました。「あなたはセンスのない人だ!」と言う一言で美的感覚を愚弄することに意義を唱えているのです。確かに「センス」という言葉は、ある種「意味不明」な部分があります。辞書によれば「センス」とは「ものごとの微妙な良さを知る心。普通の人が当然持っているはずの感覚。常識」とあります。つまり、「センスがない」ということは「ものごとの良さが分らない。普通の人の感覚をもっていない。」という意味です。でも良く考えてみれば、「ものごとの微妙な良さを知る心」=「普通の人が当然持っているはずの感覚」とはならないように思います。「ものごとの微妙な良さを知る心」は「普通の人が持ってないような高度な感覚」と捕らえた方がよいような気がします。つまり、「センス」という言葉は非常に曖昧な言葉です。同じ様なことが「美しい」という表現にも当てはまると思います。本来、「美しい」の対義語は「醜い」ですので、「美しい音楽」に対して「醜い音楽」があって然るべきと思われますが、私はそのような音楽を知りません。「美しい音楽」と言った場合の「美しい」の対義語は「騒々しい」とか「不快な」、「不思議な」のように表現されると思います。「美しい音楽」とは、どのような音楽なのか?「メロディアスな音楽」とか「旋律的な音楽」と表現される音楽が「美しい音楽」、と考えたら如何でしょうか?その前に、「美しい音」とは、どのような音なのか?単純には、エレキギターのディストーションとクリーンの違いだと考えて良いと思います。要するに、高調波が多すぎると美しさが減少することになります。ただし、高調波が少なすぎる場合も美しいとは言えません。適度な高調波が混ざった音が「美しい音」なのではないでしょうか。(ピアノなど多くの楽器では高調波以外にも多くの周波数が混入しています。)ここまではそれほど大きな問題はないと思います。次に、「美しい音楽」とは?という問いに対する答えはそれほど簡単ではありません。まず、楽器は「美しい音」を奏でることができるものが使用される必要があると思います。リズムについては、あまり早くないテンポで比較的単純なものが良いと思われます。また、メロディについては、音高が激しく変化せず、全体として滑らかに音高が変化した方が「美しい音楽」になると思います。ハーモニについては、トライアドが主であり、たまにダイアトニックコードが使用されている程度の曲が「美しい音楽」ではないでしょうか?でも、なんだか、スッキリしません。なぜならば、そのような曲は比較的多く存在するからです。なにも考えずに、ただスラスラと音を並べると「美しい音楽」になってしまいそうな気がするからです。多分そんなことはないでしょう。きっと「美しい音楽」とはどのようなものかを私が理解してないため、このような結論になったものと思います。でも、いったいどのようにしたら、美しい音楽を理解できるようになるのでしょうか?やはり有名な音楽家に「美しい音楽」を紹介してもはなけらばならないのでしょうか?でも、誰とは言いませんが、有名な音楽家や画家などには、チョッと変わった人が多いような気がしますが、如何でしょうか?このような方々によって「音楽のセンスや美しさ」が云々されているとなると、私のような常識人(?)にとってはチョっと心配になります。なぜならば、その方達が「普通の人が当然持っているはずの感覚」を持ち合わせているとは考え難いからです。もしも、「美しい音楽」が特別な感覚を持った方にしか理解できないとすると、常識人の私には一生「美しい音楽」に出会うことがない(理解して、元い「味わって」、聞くことができない)ことになります。でも私はそのことをあまり心配していません。かなり以前に、コンピュータで美人を定義しようという試みがなされたことがあります。多くの方から「美人」と思われる人の写真を提示してもらい、その特徴をコンピュータで抽出しようとしたのです。その結果「美人=左右対称」だったそうです。要するに、常識的な人によって常識的に「美」を判断すると、左右対称、つまり均整が取れて整っているという常識的な答えになったのです。天才ピカソの絵に描かれている「美人」にはならなかったのです。だから、きっと私のような「常識人」の感覚による「美しい音楽」はそれほど大きな間違いはなく、「美しい音楽」が「世の中に比較的ありふれている音楽」であるという感覚はきっと正しいのでしょう。「美」とは単純なものの中に存在するのでしょう。対称であったり、均衡であったり、なにか幾何学的で数学的な単純性に僅かな変化を加えたものが「美」と表現されるのではないでしょうか。黄金分割比は隣り合うフィボナッチ数比の極限値であり、正五角形の辺と対角線の比です。セザンヌはその芸術論において、すべての物体は円柱と円錐と球の組み合わせであると言っています。「美」とは「単純明快+α」であると思われます。しかしながら、「美」が「単純明快+α」であるとするならば、段々と複雑化していくこの世を鑑みるに、いずれこの世から「美」が失われていくような気もします。やはり、天才ピカソの絵に描かれている「美人」を美人として認識し、またジョンケージの「4分33秒」を「美しい音楽」として認識しない限り、「美」を認識できなくなっているのかもしれません。なんとも疲れる世の中になったものだ!(「常識人」の愚痴!)
なお、音楽に限らず、他の文化においても、また何らかの目的を達成するための技術や組織、機構、制度などにおいて、それを複雑にすることは簡単であっても、単純にすることは非常に困難なことだと思います。「単純」≠「簡単」です。従って、「美しい音楽」が「世の中にありふれている音楽」であるという感覚は、どこかに間違いがあるのかも知れません。でも、これ以上の考察は形而上学的な問題となるため、いくら考えても解決できそうもないので、やめることとします。
19、音楽の飽和とエントロピーについて
音楽は既に三要素のみでは多くを語れないことは事実です。これは、音楽が飽和しつつあることを示しているようにも思えます。三要素によって構成された楽曲は既に語り尽くされたようです。これは音楽に限らず、現代は多くの文化や文明においても、飽和というか、手詰まり感があるように思えます。ここで言う飽和というのは、それ以上に発展する余地がないということです。重箱の隅にしか、新しいものがない状態です。つまり、音楽の形式、メロディー、リズム、和音など、およそ音楽の形態を構成する要素が、既に探求され尽くしてしまった状態を言います。例えば、音楽の3要素の一つであるメロディーについて考えてみたいと思います。歌のメロディーは、歌手の音域にもよりますが2オクターブ前後ですので、24音程度で構成されます。音価を4分音符のみとし、24音のすべての組み合わせが可能だとすれば、1小節内の4分音符の組み合わせの数は24×24×24×24=331776個あります。しかも、これは1小節ですので、1小楽節(4小節)では331776の4乗となるため、膨大な数になります。しかも、通常は1小節が4分音符のみで構成されることはないので、更に多くの組み合わせが可能です。しかしながら、1小楽節の中で1小節は同じメロディーであっても良いと思いますが、1小節以上になると、かなり曲が似てきます。更に、通常1小節は1〜2つ程度の和音で構成されるため、その和音による規制が存在します。更に、ある音とその前後の音との音高の差は通常それほど大きくありません。よって、331776の4乗の組み合わせがすべて可能であるわけではありません。しかも、音楽は単純な音の組み合わせで構成されるものではないため、更に可能な組み合わせの数は減るでしょう。このように、メロディーの数には確かに限りがあります。このような、可能な音符の組み合わせの数をWとした場合、logW(logの底は2)を情報のエントロピーといいます。組み合わせの数が331776の4乗の場合エントロピーは73.4(ビット)となります。エントロピーは情報量の指標であり、エントロピーが大きくなるに従って、組み合わせの数が増加することになり、音楽の場合は、曲の数が増加することになります。しかしながら前述のように規制が存在すると、組み合わせの数が減るためエントロピーが小さくなります。要するに、規制がエントロピーを小さくし、飽和状態を起こりやすくしています。では、どのようにすれば飽和状態を緩和できるのでしょうか。答えは簡単。規制を緩和すればよいのです。そして、そのような試みは100年以上前から行われていました。例えば、無調性音楽や微分音を用いたものなど、多くの試みがなされました。しかしながら、それらは一般人には無縁のものでした。音楽を鑑賞するということは、音楽によって創造された音を耳というセンサーで検知して、それを脳が解釈(味わう)することです。従って、センサーである耳、ないしはそれを味わう脳に、何らかの変化がない限り、無調性音楽や微分音音楽を味わいつつ鑑賞できる状態にはならないと思われます。要するに、現在の音楽に飽和状態を創造している原因は、私たちの音楽鑑賞能力が、ある一部の人を除いて、平均律の調性音楽の範囲内にあるということです。でも一方で、現状の楽曲でも十分なのではないか、とも思われます。人間は、その一生で何曲聞くことができるでしょうか?一日に10曲聞けるとし、100年間聞いても365000曲です。しかしながら気に入った曲は繰り返し聞きまた、クラシックなど、1曲が1時間近くかかるものは1日に1曲か2曲しか鑑賞できないでしょう。また、人生でも忙しい時期には一日中音楽鑑賞ができない時期もあるでしょう。従って、一般の人はせいぜい一生の内に数千〜数万曲しか聞くことができないでしょう。そして、中でも気に入った曲は数曲〜数十曲程度しかないのではないでしょうか。要するに、鑑賞する側にとっては、曲は十分すぎるほど多くの曲があるということです。新たに曲を作ることはもう必要ないのかもしれません。要するに音楽が飽和したからといって、作曲家にとっては大きな問題であっても、一般の人にとって大きな問題は生じないのではないでしょうか。そうなると、もう作曲家の仕事は不用ということになりそうです。でもそれは、ある原理に反するとも思われるのです。その原理は「エントロピー増大の原理」です。1楽節のエントロピーは73.4(ビット)より遥かに小さいと言いましたが、私たちの音楽鑑賞能力は時代と共に明らかに向上(変化?)していると思われます。嘗てラップなどが日本で流行するとは思われませんでした。嘗て雑音と思われたような音楽が現在人々に楽しまれています。それは雑音が雑音ではなくなったのかもしれません。耳や脳の、音に対する分解能が向上したのかもしれません。心理学者のフリン氏によれば知能指数は年々向上しているとのことです(フリン効果)。よって、音楽鑑賞能力が向上(変化?)していても不思議なことではありません。「エントロピー増大の原理」は熱力学における原理ですが、人間も熱力学の原理に基づいて生存している以上、その思考も「エントロピー増大の原理」に従っていると考えても良いのではないでしょうか?人々が無調性音楽や微分音音楽を味わいつつ鑑賞できる時代がもう直やってくるかもしれません。そして更に注目すべきは、DTMです。コンピューターはこれまで出せなかった音色を作ることができます。また、コンピューターソフトでは、純正律での転調や移調なども比較的簡単にできると思われるので、これまでの平均律に固執する必要がなくなるかもしれません。パソコン(特にMac)は家庭で手軽に音楽や映像など楽しむことをコンセプトとして開発されたものであり、今後もより高機能で斬新的なソフトが開発されるでしょう。そのような状況下で私たちの音楽鑑賞能力も更に向上し、お互いに相乗効果を発揮すると思います。音楽は益々多様化し、エントロピーが増大していくのではないでしょうか。
20、音楽とダンスについて
私はダンスに関する知識があまりありません。また、ダンスそのものというより、音楽に付属した文化としてダンスやバレーを楽しんでいます。でも最近、音楽とダンスのどちらが先に始まったのか、どちらが主でどちらが従なのか分らなくなっています。多分、両者があまりにも密接した関係にあるため、どちらが主でどちらが従なのかなどと考えること自体、あまり意味がないのでしょう。聞くところによると、ダンスは音楽と同様にその種類は非常に多く、単に身体を動かすだけのものから、何か(ストーリーなど)を表現するものまで、多彩なものがあるようです。クラシックバレーやブレークダンスなど世界的に知られたものから、阿波踊りや能(能にもストーリ性がある)などの民族舞踊まで含めると、多分音楽と同じくらいの種類があるのでしょう。そして音楽とダンスは切り離すことのできない文化だと思います。大昔から音楽とダンスは一体となって発展してきたと言えるかもしれません。日本の最初のダンサーは、天照大神が天岩戸に隠れたとき桶の上に乗って足踏みをしながら踊ったアマノウズメ命であったかもしれません。(この踊りはかなり卑猥であったとか?)このダンスでは桶がドラムの役目をしたのでしょう。多分、音楽とダンスを並列して分析したならば、民族やその文化の特徴がかなり明確になると思います。そして音楽とダンスには多くの共通点があります。その第一は「誰もが自分でやってみたい!」と思う点です。これは「音楽と遊びについて」の項で記述しましたが、音楽には享楽的な遊びの要素が多分にあります。このことはダンスにも言えることです。織田信長が能を舞うことを愛し、ルイ14世が音楽に合わせてバレーを踊ったことからも分るように、踊りを鑑賞することではなく、踊ること自体、また踊りを鑑賞させることが楽しいことだったのです。(もっとも、平敦盛の笛と同様に、踊りも教養の一つであったことが彼らをして「ダンサー」たらしめたのかもしれませんが、彼らが生きた娯楽の少ない時代は、教養と娯楽は現代に比較してもっと接近していたのではないかと思います。)多くの芸術や文化において、「自分でもやってみたい!」と思うことは共通していることかもしれません。これは芸術や文化の本質に「遊び」があるからでしょう。そして、特に音楽やダンスは、自分自身がその行為を行うことが楽しいのです。だから、カラオケ店はいつも盛況です。ジュリアナ東京は閉店しましたが、クラブ系ダンスは今も盛んです。音楽やダンスは、ある意味で、特殊な能力や技術がなくても簡単にその行為を行うことが可能なのです。(無論、その技術的な程度を云々すれば、プロと素人ではかなりの差がありますが、とりあえず歌ったり、踊ったりすることはそれほど難しくはありません。)そして音楽とダンスはいつも一緒に存在しています。無論、音楽のないダンスやダンスのない音楽もあるでしょう。しかしながら一緒に存在する方が自然のように思います。そして、音楽がダンスを必要とする以上にダンスは音楽を必要とするのです。ただ、ダンスは音楽と違い、バレーなどのようにメッセージ性のあるものはむしろ少なく、ブレークダンスなど、単に「人体の幾何学的な形の時間的な変化」を楽しむものが多いように思います。(ロマンチックバレーはストーリー性が重視されたため、踊りに制限が多かったそうです。後に発展したクラシックバレーではストーリーをもった振り付けと、踊りそのものとを分けることによって、大いに発展したそうです。)そして、その「人体の幾何学的な形の時間的な変化」のみから成るダンスを純粋舞踊というのだそうです。要するに、ダンスにも音楽と同様に、純粋音楽に相当する純粋舞踊なるものがあるそうです。バレーは演劇的な要素と形状(幾何学的な形の時間的な変化)の要素から成り立っており、その形状の要素を純粋舞踊というのだそうです。そして純粋舞踊は音楽を可視化するためのものだそうです。インド舞踊はヌリッタ、ヌリティヤ、ナーティヤの3つに分けられ、その中のヌリッタは、踊りの形や動きに意味やストーリなどがないものだそうです。(ヌリティヤは手や指を使って歌詞の内容を表し、ナーティヤは全身を使って歌詞の内容を表すもの。)そして、ブレークダンスなど現代のダンスは「人体の幾何学的な形の時間的な変化」を楽しむ「純粋舞踊」と言ってもよいかもしれません。このように考えると、現在の多くの人々が関心を持っている歌詞のある音楽は「ストーリー性」を持ったものであるため、ダンスとは逆の方向に移行していると言えるかもしれません。これは実に面白いことなのです。音楽とダンスは非常に接近した文化であるにもかかわらず、少なくとも現在は違った方向に発展しているように思えるのです。ただし、これはかなり微視的な物の捉え方であって、現代のポピュラーな音楽の要素を「リズム、メロディー、ハーモニー、ソング、ダンス」の5要素と考えれば、その1つの要素の傾向であり、エンターテイメント型音楽としては、ソングでストーリを表現し、ダンスは音楽を空間的に表現しているとすれば、ダンスと音楽が一体となった芸術の一つの形式と捉えた方が良いかもしれません。これを音楽やダンスに分解して捉えることは、あまり意味がないことなのかもしれません。従来のバレーとは違った、音楽とダンスを組み合わせた形式の一つとして考えたほうがよいかもしれません。そして、今後このような文化や芸術の組み合わせはもっと発展してくるものと思われます。なぜならば、「組み合わせ」こそが創造の本質だと思うからです。ある方が「創造性とは組み合わせである」と言っていましたが、確かに真の創造力は神のみが持っており、人間は単にその「組み合わせ」をしているに過ぎないと思います。
21、音楽と詞について
あるTVの番組で、作詞・作曲をする場合に、詞が先か、メロディーが先かという対談(2人のシンガーソングライター)が放送されたことがありました。無論、ポップスに関するものでした。近年のポップスは、インスツルメンタルの曲はほとんどなく、又クラシックにおける純粋音楽などという面倒なカテゴリがないため、単純に、曲と詞のどちらを先にするかとういことがその主題になりました。そこでおもしろかったことは、2人とも作詞を先にすると言っていたことでした。つまり、音そのものではなく、感情や思想や物語のある音楽を重視しているのです。なんらかの感情や主張が「詞」の形に具現化されたものが、音楽に先行して存在し、それに伴って曲が創造され、楽曲として完成されると考えておられるようです。私は、シンガーソングライターの多くの方は、作曲を先に行うのではないかと思っていましたが、逆でした。確かに、シンガーソングライターの楽曲の「詞」は、むしろ「詩」と言ったほうが適切のような気がします。そして、「詩」には元来リズム感があるため、詩を先に作った方が、作曲がやり易いようにも思えます。また、作詞者と作曲者が異なる場合にも、詞が曲に先行する場合が多いようです。この場合も、「作詞者」というより「作詩者」と書いた方が良いと思います。しかしながら、その反対の立場、すなわち作曲が先行し、曲に合わせて作詞をする方も数多くおられます。私も作曲を先行します。作曲を先にする場合、詞がなくても、これから作ろうとする曲の情景や主張、感情などを思いつつ作曲するのが一般的(私の場合?)であるため、言葉そのものがなくても、いや、むしろ言葉そのものに邪魔されずに、「思い(想い)」が込められた曲ができるような気がします。近年のポップスの詞は、フレーズ間の意味の関連より、1つのフレーズそのものに意味を持たせたものが多いように思います。各フレーズの前後の関連ではなく、時には同じ意味を違った言葉で繰り返したり、意味の関連性は薄いが、曲想に合った詞のフレーズが並行して並んでいるような曲が多いように思います。そのような曲は多分、作曲が先になされたのではないかと思います。さて、あなたはどちらを先にすべきと思われますか?私は、どちらが先かということはあまり問題ではなく、曲と詞(詩)とがあまり接近しすぎることに問題があるような気がします。無論、曲と詞がバラバラであることは問題ですが、言葉と曲を一致させることに執着しすぎることにも問題があるように思います。詞(詩)によって曲に余計な規制が出てくることが懸念されるのです。一般的に作詞・作曲は、詩にあった曲を作ったり、また曲にあった詞を書くようになされ、そのような双方がマッチした楽曲がよしとされます。しかしながら、言葉は人間の感情や思考のすべてを表現できません。詞(言葉)はコミュニケーションの道具としては、非常に有用なものです。だが未だに不完全であり、人間のすべてを表現できません。音楽はそのような詞(言葉)の不完全性を補うものであると、常々思っています。人は相対的な存在です。常に周りの環境、特に他人との関連において自身を把握しています。言葉が、その関連を把握するのに最も重要な手段であることは間違いないと思います。しかしながら、残念なことに、言葉だけでは他人との関係を十分に把握できないのです。また、人間は「人」以外の他の環境(自然や都市などの人工物)との関係も、自己の把握において重要な因子です。言葉は、それらの人や物や事との関係を把握するには、あまりにも不完全な道具です。そこに、芸術や文化の存在の最も重要な意義があると思います。そして、音楽は他人との関連において、言語を補う、一つの重要な文化であると思います。つまり「詩」に付随した音楽は言葉の不完全性を補うものであると思います。そうです、それは他人との関係のみでなく、他の環境(自然や都市などの人工物)との関係をも含んで、他との関係の把握をより適確なものとし、自己の把握を深化させるものなのです。無論、それは音楽のみでは不十分な場合もあります。いや、むしろ「音楽」と「詞」のみでは不十分であるからこそ、ダンスなどを含んだり、映像を駆使したり、よりエンターテイメント的なものが、要求されてきたのでしょう。ちょっと本題から外れましたが、要するに「作詞」が先か、「作曲」が先かということはあまり問題ではなく、どちらか一方での表現より、両者が合わさることによってより豊かな自己表現ができるとは思いますが、詩は曲によって規制され、同時に曲は詩によって規制されることは、いつも念頭に置いておくべきでしょう。どちらを主にするかは、自由です。でも、なんとなく作曲を先に行った方が良いような気がします。多分「作詞」が得意でないために、そう思うのでしょう。(作曲も得意ではありませんが、どちらかというと「作詞」は下手だということです。念のため!)結局、どちらが先でもよいということです。大した結論は得られませんでした。悪しからず!
22、音楽とインターネットについて
近年の情報化技術の進歩は目覚しいものがあります。特にインターネットが我々に与えたインパクトは、良きにしろ悪しきにしろ、計り知れないものがあります。いづれにしても、インターネットによって音楽がより身近なものになったことは、音楽家にとっては多分良かったのでしょう。でも、なぜこれほどまでにインターネットが普及したのでしょう。ここで、パンセ(パスカルの遺稿)の中に、「人の不幸の原因は、部屋の中に1人で、じっとしていられないことである」、との記述があることが思い出されます。人はいつも他に向かって自己を表現し、そして他の反応を観て自分を認識し評価しています。そうしなければ、不安になります。私のように、詩を書いたり、曲を作ったりすることによって自己を表現することは、パスカルに指摘されるまでもなく、「部屋の中に1人で、じっとしていられない」からなのです。いや、多くの人々の行動の原点が、「部屋の中に1人で、じっとしていられない」からなのです。多くの人々は暇になると不安になります。しかしながら、「部屋の中に1人で、じっとしていられない」ことは、不幸でもあり、またそのことが文化や文明を発展させる原動力であることは自明のことです。「不安」こそが、「進歩」の原動力なのです。ここに、インターネットがこれほど早急に受け入れられた原因が潜んでいます。それは多くの情報が得られるから。ではなぜ多くの情報が得られるのでしょうか?それは無料または低価格で情報を発信している人がいるから。ではなぜ「只」で情報を発信しているのでしょうか?この答えが、「人の不幸の原因は、部屋の中に1人で、じっとしていられないことである」、からなのです。(もっとも、「只」で情報を発信していると思ったら、ちゃっかりと広告料収入で儲けている場合もある。私も…。)情報を発信し、その反応を見て自己の存在を確認するために、インターネットは非常に有効な手段なのです。アルビン=トフラー氏はその著書「未来の衝撃」「第三の波」「パワーシフト」3部作の中で、情報がいかに重要なことかを述べていますが、主として「知力」としての重要性が主張されています。彼は「権力」を「暴力」「金力」「知力」からなると考え、中でも「知力」が最も重要であり、21世紀は「知力」を持ったものが「権力」を得ると考えています。そして21世紀に情報化が飛躍的に進展することを示唆しています。しかしながら、情報化はもっと根源的な知的欲求に根ざしたもので、その中にどのような価値を見出すかということと、情報化が進展する理由は別物であると思います。情報化は人がコミュニケーションを必要とし言葉を話し始めたときから、いや多分、人が人となった時から進展し続けてきたのでしょう。人は「知」に飢えています。そして、100万年の時を経て、やっと「インターネット」にたどり着いたのです。今後も情報受発信のための道具は進化し続けるでしょう。音楽や動画のインターネット配信がCDやDVDに完全に取って代わることができるのかどうかは判りませんが、今後も通信速度やパソコンの処理速度は上昇し続けるでしょう。将来、より高度な情報送受信技術が生まれるものと思われます。現在はその途中の段階にあると思われます。そのような環境において、音楽はどのような進展をするのでしょう。ソリトン通信などが実現すれば、アナログに極めて近い品質の音楽データがリアルタイムで送受信できるかもしれません。(今でもかなり良品質ですが、高周波側のデータが不足ぎみです。最近、高周波側の音を検知できる細胞が人体のどこか(耳ではない)に存在するかもしれないということが言われており、検討が進行しているそうです。これこそ第六感か?)量子コンピュータが実現すれば、計算速度は飛躍的に向上します。そうなれば、音楽ホールで聞いたのと同じような音楽が自宅で聴けるかもしれません(ただし、アナログ技術、例えばスピーカなど、の技術の進歩も重要ですが)。動画と組み合わせればライブにより近い環境が得られるかもしれません。そのような環境になったらライブに行く人が減ると考えるのは間違いです。多分その逆です。インターネットを通じて音楽の楽しさを知った人は、最終的にはライブが最高だと気がつくでしょう。音楽にとってインターネットは神様です!(チョット言い過ぎか?)
23、音楽と波について
音が物質中を「波」として伝播し、これを「音波」と呼ぶことはよく知られています。一般的に「波」は、反射、屈折、回折、干渉といった性質をもっています。音波も波ですので同じような性質をもっています。このことは、音楽を聞く場所によって聞こえ方が異なるということで、特に音楽ホールや劇場などで、席をどこにするかが重要なこととなります。ホールなど比較的広い閉空間では壁面からの多重反射による残響音の影響が重要となり、また野外では干渉や遠方からの反射であるエコーが影響することがあります。このような音波の性質は、私たちの音楽に対する感覚に多大な影響を与えます。いやむしろ、そのような性質によって音楽がよりおもしろい存在になっていると思います。私たちは単に楽器や声帯から直接出された音から成る音楽を聞くことはほとんどありません。そのような音を聞くためには無響音室のような部屋での演奏会に出席する必要があります。(多分そのような演奏会はないでしょう。)むしろ、演奏法や音楽ホールのデザインを工夫したり、音の電気的な処理によって、反射(例えば残響音)や干渉(例えばうなり)による音響効果を利用して音楽を楽しんでいます。さて、音楽において、そのような音の性質の中で重要なものは何かといえば、「反射」です。音楽ホールの設計では特に考慮されるべき性質です。「屈折」は音が伝わる空間の密度変化(温度変化)がある場合などは考慮すべきかもしれません。しかしながら、一般の音楽会場ではそのようなことは起こりませんので、音の屈折はほとんど考慮する必要はありません。また「回折」は演奏者と聞き手の間に障害物がある場合など、特殊な状況でない限り考慮する必要はないでしょう。ただし、音がビルの陰から聞こえてくる原因の多くは反射ではなく回折である場合が多く見受けられます。つまり、音は曲がりくねった壁に囲まれた道を反射と回折の2つの性質によって伝播します。干渉は周波数が同じまたは接近している2つの音波によって発生しますが、位相が関係してくるため、音源が同じ場合でないと、一般的には干渉は起こりません。でも最近、音の干渉を利用して、音によって音を消す「アクティブノイズキャンセリング」という技術が話題になっています。この技術は、かなり前に、ある自動車メーカーが座席の騒音を小さくするために開発をおこなったことがあります。マイクで雑音を検知し、その音と同じ周波数であって逆の位相をもった音をスピーカーから流して干渉させ、音を消すというものです。しかしながら、干渉によってある場所の音は小さくなりますが、音のパワーがなくなった訳ではないので、その場所を離れて、干渉が起こらなくなると今度は雑音となり、かえって騒音が増大します。しかも、音が小さくなる場所が意外と狭いため、実用化はしなかったようです。近年、ヘッドホンやイヤホンなどでこの技術が応用されているようですが、私は使用したことがありません。なぜならば、雑音のなかで音楽を聴くことはあまり好きではないからです。芥川也寸志氏は「静寂は音楽の基礎である」といっています。もっとも現代は、雑音の中でしか音楽が聞けないような時代かもしれませんが…。さて、このように、音は空気を媒介とした波ですが、実はこの世のすべての物や空間(真空も含めて)が「波」によって構成されているということが理論的に証明されつつあるとのことです。そのような理論を「超弦理論(Superstring Theory)」というのだそうです。でも、そのような弦は、太さが0で長さのみしかなく、しかも猛烈に小さいのだそうです。更に、その次元が4次元(縦、横、高さ、時間)ではありません。したがって、決して見ることはできません。また、離れた場所にある現象は、音波や電磁波、重力波などの「波」によって、お互いに作用し合います。このように、この世のすべてが「波」によって構成されているということは、実験的にすべてを確認することはできていないようですが、どうも確かなことのようです。よって音楽が「波」ならば、「音楽を学べば、この世の多くのことを知ることができる」かもしれません。(飛躍しすぎたか?)「愛こそすべて!」ではなく「波こそすべて!」かもしれません。いや、「波こそすべて!」なら「音楽こそすべて!」かもしれません。(完全に飛躍し過ぎた!)
24、音楽的能力について
音楽に限らず、芸術や科学などにおいても、その能力や価値の評価が難しいことは、よく知られています。絵画などは画家が亡くなった後に評価されることはしばしばです。また音楽の分野でも、例えばカラヤンとフルトベングラーの比較などは、議論百出といったところです。これは評価の対象があまり明確でないことに由来していると思われます。カラヤンとフルトベングラーの何を比較するかによって、その評価はまるで違ってくるということだと思います。どちらがより多くの楽曲を指揮できるのか、どちらがより正確に作曲者の意図を汲み取って指揮することができるのかなど、評価項目毎にその優劣は違ってくるでしょう。そして、評価項目の重要度は人によっても、時代によっても変化します。「音楽の能力」と言った場合、それが楽器の演奏能力か、歌唱力か、作曲の能力か、指揮ができることなのか、それとも音楽を鑑賞する能力なのか、それらすべての平均的なものなのか。でも、どうやら音楽を鑑賞する能力のような受容的な能力と、演奏能力や歌唱力のような音楽の創造に対する能力とは区別したほうがよいようです。更に、学校では音楽の用語や記号、作曲家とその作品の関係などの知識などが音楽の能力とされているように思われますが、やはり知識的な能力は音楽的能力の中でも、あまり重要視してはいけないように思えます。ではいったい「音楽的の能力」とはどんなものなのでしょう。多分、そのすべてに優れていれば、確かに「音楽的な能力」のある人ということになるのでしょうが、そのような人はビバルディ(バイオリン)、リスト(ピアノ)、バッハ(オルガン)とかモーツアルト(ピアノ)のような天才に言える事で、一般人には当てはまらないと思います。(ただし、彼らに歌唱力があったかどうか、私は知りません。)また、知能指数などでも評価は困難です。(Cox,C.M氏によると、バッハのIQは125〜140、ベートーベンは135〜140、モーツアルトは150〜155だそうです。これに比べてゲーテは190、デカルトは170で、詩人や科学者の方が音楽家よりもIQは高いのだそうです。でも多分、デカルトよりモーツアルトの方が音楽的な能力は優れているでしょう。)ここで、あまり理論的な評価ではありませんが、メーン氏は多くの人を調査した結果、作曲ができたり、多くの楽器の演奏ができること、また絶対音感があるなどの能力をもっている場合、その人は非常に音楽的能力に優れていると結論付けています。そして2声部が歌えたり、暗譜で楽器を弾けるなどの能力が、それに続いて音楽的能力があるものとしています。そして歌が歌えたり、リズム感があるなどは、それほど音楽的能力に優れているとは言えないとしています。でもなんとなく変ですね。確かに、IQと音楽的能力はあまり関連がないとは思いますが、やはり私は、歌唱力にすぐれている人が音楽的能力に優れていると感じます。もちろん作曲ができたり楽器が弾ける人は、音楽的能力に優れているとは思いますが、それ以上に歌唱力にすぐれている人の方が音楽的能力に優れていると感じます。これは多分「音楽的能力」に対して、どのような能力をより重要視するかによる違いからくるものではないでしょうか。そしてその重要視する項目は時代によって変化しているのでしょう。実は、メーン氏が論文を書いたのは1923年でした。まだメディアが貧弱な時代でした。近年のように、TVやDVDなどが発達してくると、演奏者のパフォーマンスやダンスなどに起因する視覚的な感覚が、音楽そのものの評価をできにくくしているのかもしれません。もっとも、そのような傾向はカラヤンとフルトベグラーの比較においても存在していたようです。(カラヤンは見た目が良く、派手好きであったが、フルトベングラーは恐持てであったとか。)そもそも「能力」という言葉自体が問題なのです。能力はテストなどによって測定でき、数値化が可能なものと思われがちですが、数値化ができないものの方が遥かに多いのです。そして、評価すべき能力が、その能力とはおよそ関連がない能力によって影響を受けることが多いのです。例えば、音楽的能力といった場合、見た目やダンスなどの運動能力、更には人柄までも、その評価に影響を及ぼします。でもここが、重要な点です。私たちは、音楽にしろ絵画やその他の芸術にしろ、作品そのものというより、その作品に込められた作者の「思い」に関心を向けざるをえません。単に作品そのものを、忠実に評価することができないのです。作者の「思い」の中には時代背景や生い立ちなど、多くの事物が関係してきます。ある1つの項目を取り出して優劣をつけることが不可能なのです。このことが、1度有名になった画家の絵が、たとえまだ未熟な時期に描かれた絵であっても、好評価される所以なのです。音楽も同様のことが言えます。1度有名になった歌手や演奏家の曲が次々に好評価を得ます。更に、TVの画面大きくでてくる歌手が、その裏で楽器を奏でている人や作曲家よりも「音楽的の能力」に優れているように感じることは、歌手が作品の「思い」を聴衆に伝える役割を持っているからなのです。歌手が作曲家や演奏者を代表しているからなのです。ただそれは、音楽的能力ではなく、役者や俳優としての能力と考えた方が解り易いかもしれません。(勿論、音楽的な能力、特に歌唱力に優れていることは疑う余地がありません。)このように、「音楽的能力」については、その評価が困難であり、その評価項目さえ明確でないと思われます。にもかかわらず、教育現場などでは「音楽的能力」の評価をしています。それは、音楽のある側面を捉えたもので、音楽的能力の全体を評価したものではないということを明記すべきでしょう。これは、音楽に限らず、科学や文学など、他の分野でも同様のことが言えるでしょう。では、何かの「能力」を評価するより良い方法はあるのでしょうか?多分ないでしょう。なぜならば、上記のように、お互いの能力は相互に関連があり、本来単独で評価すべきものではないと思うからです。現在、学校教育や資格試験などの多くのテストや試験は、「基礎的な能力」(テストを計画した人が「基礎的」と考えた項目)を評価するためのものであり、実際の能力(世の中が認める能力)ではないのです。もっとも、世の中が認めるかどうかなど関係ない!(カッコイイ!)と言っている音楽家や芸術家も多く存在します。
25、音楽の鑑賞について
音楽を鑑賞する場合、音楽の種類や演奏者、演奏会場など、多くの条件によって、その鑑賞の仕方や楽しみ方が違ってきます。家でCDを聞く場合は、音そのものに集中することになり、音楽ホールでは演奏者や指揮者の立ち居振る舞いも重要な鑑賞事項になります。また、ロックコンサートでは、音楽というよりはパフォーマンスが重要であり、鑑賞者も演奏者と一体になって踊っています。音楽そのものより、一体感や臨場感といった特別な感覚が重要になっています。ところで、当たり前のことですが、音楽は絵や彫刻と違い、時間と共に進行します。このことは実は、非常に重要なことだと思います。つまり、音楽はかならず4次元でなければ成立しないということなのです。かならず時間軸を必要とするのです。絵や写真は2次元であり、彫刻は3次元であり、音楽や映画、演劇は4次元なのです。この時間という次元は、他の次元と違い、後戻りができず、一方向にしか進行しません。(ただし、量子力学的な非常に短い時間の範囲では、時間が曖昧となり、過去と現在と未来が区別されません。)したがって、記憶が問題になります。音の記憶のみが、音楽を鑑賞するための最も重要な道具なのです。過去、現在、未来の音の間の関連が問題なのです。この関連を明確にし、過去と未来の関係を記憶にしっかりと留めるのが、和声の機能です。音楽はある時点の一瞬の音のみでは成り立ちません。ある時点の音とその前、その次の音が何らかの関連を持った時、初めて音楽として鑑賞する価値が生まれるのです。和声によって小節内や小節間の関連が明確になり、記憶に音の時系列を的確に留めます。ではこの音の時間的な関連は和声によってのみ関連付けられるのでしょうか?ここが問題です。記憶は総合的なものです。字を記憶する場合、書いて、聞いて、目に焼き付けて、時には他の字と関連付けて記憶します。、音楽もまた然り。映画などでは、画面やセリフや音楽が一体となって記憶を形成しています。別々の感覚器官からの情報が脳で合成されるため、現在の感情や思想が音楽によるものなのか、映像によるものなのか、また、物語によるものなのか、もはや区別することは不可能です。更に、音楽は抽象的な感覚です。一瞬で私たちの頭に入りそして飛び去ります。それらを頭に固定するために映像や物語が大きな寄与をします。私たちの脳は、コンピュータのようにたった1つの記憶のみを呼び出すことはできません。なぜならば、記憶は神経細胞のネットワークの中に分散されているからです。1つの神経細胞に1つの記憶があるわけではないのです。脳は何時も、全体が活動しています。確かに音楽を聴いていると、脳のある部分が活性化されていることが解っています。しかしながら、脳の他の部分が機能してないわけではありません。脳の全体が音楽を聴いているのです。(なお、音のセンサーは耳以外にも、多分体全体にあると思われます。)音楽は体全体で鑑賞すべきものなのです。もっとも、どのような芸術や音楽、演劇でも、鑑賞の仕方は個人の自由であり、また同じ人であっても、状況によって鑑賞の仕方は違ってきます。更に、芸術や音楽、演劇の種類によっても違うでしょう。「音楽はどのように鑑賞すべきか?」などと議論しても、あまり意味はないかもしれません。しかしながら、音楽を聴くことが楽しいと思える人生と、音楽を聴いてもうるさいと思う人生で、どちらが良いかと言えば、多分前者の方が豊かな人生と言えるのではないでしょうか。
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