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1、趣味とは?(1)
私は趣味という言葉がいつ生まれたのか知りません。英語ではtasteやhobbyが使用されるようですが、何となく意味が違う気がします。大辞林によると趣味は「@専門としてではなく、楽しみにすること。余技。ホビーA物の持つ味わい・おもむき。情趣B物の美しさ・おもしろみを観賞しうる能力。好み。感覚。センス。」とのことです。所謂、遊びとはちょっと違って、娯楽や単なる興味に基ずくだけのものではなく、教養や美的な精神を養うものが趣味と言うようです。また、娯楽は大辞林によれば「心を慰め、楽しむこと。また、そのような物事。笑い、喜ぶような楽しみ。」だそうです。してみると、落語鑑賞は趣味でしょうか?それとも娯楽でしょうか?古典落語鑑賞は趣味で、現代落語鑑賞は娯楽?どうも日本語では趣味と娯楽の区別は明確ではないように思われます。現在の日本語では必ずしも教養や美的な精神を養うもののみを趣味と言っているわけではなく、スポーツや娯楽も含め趣味といっているようにも思われます。もしかしたら「良い?趣味」が本来の「趣味」を意味し、「悪い?趣味」が「娯楽」に分類されるかもしれませんが、現代落語鑑賞が悪い趣味とは思いませんので、やはり趣味と娯楽の区別は難しいようです。ただし、いずれも「職業」とは区別されるものかもしれません。ちょっと待て!趣味を職業にする人がいますが、その行為は趣味?それとも仕事?いよいよ趣味、娯楽、職業の区別が面倒になってきました。ただし、一般的には「趣味・娯楽」と「職業」は区別してよいように思われます。これは、特にサラリーマンなどの多くの人々にとって職業が趣味であったり、ご娯楽であったりすることが少ないためだと思います。娯楽や趣味を提供するプロスポーツマンや俳優、音楽家などにとっては、職業が趣味であったり、娯楽であったりすることがあり得ると思いますが、やはり「趣味・娯楽」と「職業」は区別した方が良いように思います。本項ではもう少し趣味、娯楽、職業の違いを分析したいと思いますが、特にそれに留まることなく、一般に(≒適当に)趣味とは?ということについて記述してみたいと思います。そんな分析は無意味だと思っている方や、私の意見に反対する方も多くいらっしゃると思いますが、そのような方は私の考え方を無視し、これ以上この雑感を読まないで下さい。
2、趣味とは?(2)
趣味について記述する前に、なぜ人は趣味を楽しむことができるのか?について考えたいと思います。ところで、人間以外に趣味をもっている動物は地球上にはいません(多分)。イルカなど「遊び」を知っているかのような動物がいますが、やはり「趣味」とは言えないと思います。イルカに聞いてみないとわからないとは思いますが、多分娯楽のようなものだと思います。よって、趣味は多分人類に固有の特質と言ってよいと思います。ではそのような人間特有の質はどのような機能から生じたのでしょうか?このことに関し、ノバル・ノア・ハラリ氏がその著書「サピエンス全史」において記述している「認知革命」が参考になると思います。彼は、人類は「認知革命」によってその生活を一変させたと言っています。(この点については別途記述したいと思います。)認知革命
、すなわち知性の誕生は、宗教や法律、貨幣といった虚構を生むことになり、知的な遊び、すなわち趣味を生んだのではないでしょうか。趣味は単なる感覚的なストレス解消である娯楽と違い、知性が関与するストレス解消行為であると思います。ですから、職業が趣味になることもあると思います。なぜなら、ほとんどの職業は知的な要素を含んでいるからです。ただ、趣味、娯楽いずれも、自律神経を整えるためのものであり、多くの人にストレスを感じさせる職業とは別のように感じます。では職業が趣味になる場合とならない場合とで、何が違うのでしょう。ここに趣味の本質があると思います。でも、「趣味の本質を解き明かしても、それがどれほどの意味があるのか?」と思っている方々は、私がかなりの暇人であるとお考えのことと思います。確かにその通り、私は暇人です。ただ、趣味は暇人がやることと思っていると、問題が生じるかもしれません。多分、知的なストレスには知的なストレス解消が必要であり、それが「趣味」であると思います。よって、むしろ暇がなく仕事に明け暮れている方こそ、趣味をすべきなのです。全てのストレスは娯楽によって解消できると思っている方もいるかもしれません。でも娯楽は短時間のストレス解消であり、持続性のあるストレス解消にはならないのではないかと思います。やはり、趣味の本質を解き明かすことは意味があるかもしれません。
3、趣味・娯楽の歴史
人は何時から趣味や娯楽を行い始めたのでしょうか?多分、先史時代には、現代人が定義する「趣味・娯楽」は存在しなかったかもしれません。そのような古代には食べるための活動が主であり、趣味や娯楽にあてる時間はあまり無かったと思われます。しかしながら、時とともに、食料などの生産性が増加するに従って、一部の支配階級に労働以外の時間的な余裕ができ、娯楽が生まれたのではないかと思います。西洋ではローマ時代のコロセオで行われた剣闘士の試合観戦などが娯楽と言えると思います。また、日本でも「力くらべ」伝説などから推定して、相撲(?)観戦のような娯楽(?)がかなり昔から存在していた可能性はあると思います。しかしながら、これらは単なる娯楽とはいえないと思います。多分、戦闘訓練の一環として行われていたと見るべきでしょう。娯楽は実用的な事柄から離れて生まれたものではなく、実用的なもの(宗教や労働、戦闘訓練など)から派生して生まれたものと解釈すべきでしょう。世界各地で行われている祭りも、宗教的な面と同時に、娯楽的な側面を持っていることが散見されます。そして、要するに、娯楽は仕事や宗教的な儀式から派生し、更に趣味は娯楽から派生し、より知的なこととして発展したと考えるべきだと思います。例えば、弥生時代の古墳から笛が出土したとのことですが、笛ははじめは祭礼や呼び子などに使用されていたものが、だんだんと趣味としての音楽となっていったのではないでしょうか?また、碁や将棋、チェス、トランプのようなゲームは紀元前に既に存在していたようで、やはり知的な戦闘訓練から派生したのではないかと思います。要するに、労働→娯楽→趣味という経過を辿ったのではないでしょうか?そして、このような経過は、時代とともに人の知的な活動が増加していることを意味しているとも考えられます。近年、映画や漫画、ゲームといった趣味や娯楽に携わる人が増加しています。もしかしたら、仕事より趣味や娯楽の方が重要な時代がくるかもしれません。(本当か?)いずれにしても、時とともに趣味や娯楽に費やす時間が増加しつつあることは、疑いのない事実であると思います。嘗て、多くの日本人が中流意識をもっているといわれた時代がありました。そのうち多くの人が「貴族意識」を持つ時代が来るかもしれません。労働をせずに和歌や蹴鞠に興じる時代が来るかも?やはりカジノは必要か?
4、趣味・娯楽の必要性
人は感覚器官(五感など)によって外界(人を取り巻く環境)を検知し、危険から身を守っています。しかしながら、これらは外界を検知するもので、内部(多くの臓器)に関しては、触覚による痛みや温度などの感覚以外に、その状態を検知し、脳の意識をつかさどる部分にその状態を伝達する機能は貧弱です。
しかも臓器に関する触覚はかなり鈍感です。多くの臓器は交感神経系と副交換神経系によってコントロールされ、脳が意識的に危険(病変)からそれらを守ることは困難です。それぞれが適度に調和していることが必要だそうです。交換神経が働くと人は興奮し、副交感神経が働くと人は沈静化します。趣味や娯楽はこれらの神経系統に作用し、その内蔵機能を適切な状態に保つために有効ではないかと思います。さて、人の脳の最大の欠点は「忘れることができないこと」だと思います。人は例えそれが不要な記憶であっても、それを意思によって消し去ることはできません。忘れたいことを、意思によって忘れることができれば、どれほど楽なことか!でも寧ろ、忘れたいことほど記憶に残ります。そのような嫌な記憶はストレスとなって、交換神経系に悪影響を及ぼします。趣味や娯楽はそのような「嫌な記憶」を一時的ではありますが、消し去ることが可能です。趣味や娯楽が交感神経に良い影響を及ぼすことはよく知られています。ただし、どのような場合でも交感神経を安定化するわけではありません。特に賭け事においては、かえってストレスを生む場合もあります。すなわち、やり方によっては趣味や娯楽は交感神経に悪影響をおよぼす場合もあります。基本的には、趣味や娯楽は人間の欲求から生じたものです。趣味は知的な欲求から、また娯楽は感覚的な欲求から生じたものと思われます。欲は追求しすぎると毒となります。近年の加速度的な生活環境の変化は、趣味や娯楽をより必要とするようになってきたと思いますが、やはり、それもほどほどだと思います。やはりガジノは不要か?
さて、趣味や娯楽が文化の発展に寄与していることは周知の事実です。現在の高度な文明社会は科学技術に基づく生産性の向上のみによってもたらされたわけではありません。嘗て、武士の最も重要な教養(趣味)は「和歌」であったとか。(?)趣味は文明社会において重要な存在です。この傾向は今後も続くと思います。いや、今後はより重要な存在になると思います。AIやロボットが高度化し、知的な労働の多くはAIに、また肉体的な労働はロボットに取って代わられる時代がもうすぐそこに来ていると思います。私たちには今後ますますより高度な知的活動が要求されます。チコちゃんではないけれど、「ボー」としていてはいけません。知的生産性を向上するためには、趣味などによる交感神経の安定化が必要になるでしょう。趣味も仕事の一部(?)であると考えた方が良いかもしれません。やはりガジノ(知的?)は必要か?
5、趣味と娯楽と職業
さて、もう少し趣味と娯楽と職業の違いを考察してみたいと思います。仕事は「生活の基本=衣食住」のためであり、「生産(物質的なもののみならず精神的な事物を含む)」に関与し、現代では「賃金」を得るための行為であります。趣味や娯楽は一般には生産や賃金を得るためのものではなく、どちらかといえば「消費」に関与した行為であり、「職業で得たものを、趣味や娯楽で消費する」ことになるように思われます。要するに、職業と趣味、娯楽を区別するのは、その行為の種類ではなく、その行為が生活の基本を支えるための収入(賃金など)を得る行為であるかどうかであると思います。ですから、プロの野球選手やサッカー選手がその行為を楽しい行為と感じていても、それは趣味ではなく職業です。職業であると同時に趣味や娯楽にも成り得ると考えるのは多分間違いでしょう。ではパチンコや競馬、カジノなどで金銭を儲ける行為は職業でしょうか、それとも娯楽でしょうか?多分娯楽でしょう。なぜならば、賭け事は必ずしも収入にはならず、消費する場合の方が多いからです。(もっともその胴元は職業でしょう。)さて、現在の社会では科学技術の進歩が目覚しく、生産性は飛躍的に向上しています。多分人口の増加以上に生産性は向上しているのではないかと思われます。(ただし、アフリカ諸国など科学技術が不十分な地域では、食料や医療などが不足している地域が多く存在するため、世界的には十分に生産性が向上しているとはいえないかもしれませんが、単に分配が公平に行われていないためともいえるかも。)そのような社会では、職業に費やす時間は順次減少していくものと考えられます。従って、休暇が増加し、趣味や娯楽に費やす時間は増加の一途をたどると思われます。テルマエロマエにあるように、経済的に繁栄した古代ローマでは多くの市民が趣味や娯楽を享受し、それが更にローマを大きくしていったのでしょう。、趣味や娯楽によって、心身をリフレッシュした人々はきっと、更に効率的な生産手段を発明するために努力するのでしょう。(本当か?)ただし、行き過ぎは禁物です。過度の繁栄はややもするとローマのように堕落を招き、やがて滅びるかもしれません。多分、職業と趣味や娯楽に費やす時間のバランスが重要になると思われます。ただ、時とともに趣味や娯楽に費やす時間は増加の一途を辿ると思われます。このようなことは必ずしも良いことばかりとは限らないとは思いますが、ケインズ氏によれば、有効需要は消費需要と投資需要だそうです。人々の余暇が増えて、趣味や娯楽による消費行動が活発になれば、消費需要が増加して世の中はより豊かになると思いますが…。(余談:投資需要を政府の公共投資に頼るだけでなく、趣味や娯楽に使う資金を投資に回すことも良いかもしれません。ピケティ氏は、その著書「21世紀の資本」の中で、労働による収入より投資による収入の方が大きいと言ってます。)
話を元にもどしましょう。以上の議論(?)により、現代社会では、職業とは賃金を得るための生産的な行為であり、趣味や娯楽は金銭を使用して消費的な行為をするものと考えてよいように思います。行為そのものによって、職業と趣味や娯楽を区別することはできないと思います。ですから私は職業を趣味に生かしています。「おまえの職業は何なのだ?」と聞きたいですか?へへへへへ…。
6、趣味と文化
趣味や娯楽は文化か?「文化」の定義にもよりますが、やはり「文化≒教養」と捉えられてよいと思います。さすれば、「趣味や娯楽は文化か?」という問いに対しては、「中身によりけり」だと思います。いや「趣味≒文化」、「娯楽≠文化」ではないでしょうか?ここが問題です。例えば、歌舞伎は嘗て庶民の娯楽でした。しかしながら、現代では伝統文化の筆頭です。漫画は嘗て子供の娯楽でした。しかし現代では日本を代表する「文化」となっています。人の思考は常に変化してます。諸行無常は人の思考にも当てはまります。同じ漫画でも内容によって変わります。同じ歌舞伎であっても、各時代において、その存在意義が異なります。趣味や娯楽は文化か、などと論じることは愚かなことかもしれません。人は自分の行動の全てに意味付けしている訳ではありません。特に、趣味や娯楽に意味付けして行っている人は、あまりいないのではないでしょうか。(もっともルサンチマン的に趣味をおこなっている方もいるかも?)単に「やりたいから」、「おもしろいから」といったことが、趣味や娯楽に没頭する理由だと思います。多分、その人の教育レベルや取り巻く外部環境などによって、「やりたい、おもしろい」などの心が自然発生的に生まれてくるのだと思います。要するに、時代や環境を反映しているのだと思います。別の項目で「趣味の善し悪しや品格」について記述したいと思いますが、趣味や娯楽と教養との関連はそれほど大きいとは思いません。寧ろ社会の思想や状況、またその人の社会的な立場(年齢や職業や性別など)が趣味や娯楽に影響すると思います。趣味や娯楽は「文化≒教養」を考慮することも必要かもしれませんが、「その人を取り巻く環境や立場をわきまえてやりたいことをやる!」ということではないでしょうか。やがて、能や歌舞伎のごとく、現代のすべての趣味や娯楽は(麻雀やパチンコでさえ)文化と言われるようになるかもしれません。100年後?1000年後?(古いものは何でも伝統文化?古いものに関する知識は何でも教養?)
7、趣味の善し悪し(品格)
人は何でも上下関係を付けたがるようです。趣味も、品の良い趣味と悪い趣味があるようです。品の善し悪しは何処から判断されるのでしょうか?同じ音楽でも、クラシックは品が良く、ジャズやポップスは品が悪い方にランクするようです。これは音楽の構成や楽器ではなく、ましてや教養とは無関係で、どのような人物が好んだかによって判断されるようです。例えば、イギリス王室が好む音楽は上品であり、ロンドンの場末の酒場で聞く音楽は下品であるとか。このためビートルズの音楽は、はじめ後者と思われていたが、王室から勲章をもらった途端、クラシックの演奏会で演奏されるようになったように思われます。もっともこれは、全ての趣味に言えることかもしれません。和歌、俳句、川柳を比較するとやはり、和歌、俳句、川柳の順で品格が並ぶような気がします。なぜならば、歌会始があるからだと思います。もっとも、品格の善し悪しは趣味に限らず、人の行動や言動、更にはその服装や態度、食べ物や飲み物にまで、品格の善し悪しがあるようです。ただし、品の善し悪しは簡単には判断できません。時代によっても、また国によっても、異なります。スケボーも嘗ては、上品なスポーツとはみなされていなかったようですが、やがてスケボーの選手から国民栄誉賞を授かる人が出現するかもしれません。そうなったら、スケボーも上品なスポーツの仲間入りをするでしょう。音を立ててラーメンやそばをすする外国人もやがて増加するでしょう。なぜならば、上品を演出するであろう人物像が変化しているからです。(上品を演出できる人物がいなくなったのかも?)嘗てあった、身分制度が崩れ、資産の大小がそれに取って代わりつつあるからです。日本の武士や西洋の騎士はその身分に添う行動指針、例えば武士道や騎士道などが存在しました。しかしながら、現代ではそれに換わる課長や部長、社長といった階層に準じた行動指針(例えば課長道や部長道、社長道など)があるとは思われません。(たまに、下町ロケットに出てくるような部課長道
、社長道を貫いていると思われる方もいますが、その割合はかなり低いと思われます。)また財産や資産の大小に応じた行動指針のようなものは全くありません。また、漫画と文学作品も、その品格に差がなくなったように感じます。なぜならば、品格を演出すべき人が漫画を読んでいるからです。よって、やがて趣味の善し悪しなどは無くなるでしょう。品格などという言葉もやがて消失するのではないかと思われます。いや、既に消失しているかも!品格は人の権威や上下関係を演出するための道具であり、財産のみ(?)が人の身分を決める時代にあっては「品格」という言葉すら消失してしまっているように思われます。でも私はそのことに不満はありません。なぜならば、私はワインの香りからその値段を想像することができないので…。
8、趣味と認知
ハリル氏はその本「サピエンス全史」において、人類は認知革命、農業革命、産業革命によって今日が築かれた、と言っています。この中で、認知革命が人類を決定付けたと言っています。この認知革命というのは、人間が「虚構」(≒架空)の世界を作る能力を得たことであるといっています。宗教や貨幣、法律など自然に実在しない、まさに「虚」の存在、を「実」の存在と認識する能力を身に着けたことによって、人類が現在のような発展(?)を遂げたと言っています。ハリル氏は「言葉」の存在がこの虚構の世界を作り出したもっとも大きな要素としています。言葉はコミュニケーションの道具であると同時に、個人の思想や思考の道具でもあります。確かに、私達の感覚器官は現実を認識するためのセンサーではありますが、センシングした信号は私達の脳の働きによって別の形で認識します。例えば、光の周波数の違いは、色として認識し、また、食物の味の違いは、食物から抽出された化学物質が舌の味蕾で化学反応することによって生じるもので、食物そのものに「味」という「物体」があるわけではありません。私達の感覚器官は自然界を生物特有の感覚に置き換えて認識しています。もちろん、これは、動物一般にも言えることで、これだけでは認知革命は起こらなかったでしょう。感覚は自然を理解(認識)するためのもので、一つの個体にのみ存在し、個々の個体はそれぞれが所有する感覚器官によて別個に自然を理解しています。しかしながら、共同生活をする上では、共通の理解が必要です。ここに言語が登場が必要だったのです。言語が登場することによって、各個体の認識を共有することが可能になりました。同時に、言語は「虚構」、すなわち「思考」を生むことになります。そして「趣味」とは、この「虚構」の上に成り立った「娯楽」、つまり、「架空娯楽」と考えられないでしょうか?イルカや犬など、他の動物でも、遊ぶことを知っている(娯楽を認識している)と思われる行動をします。しかし、それは「趣味」ではないでしょう。「趣味」は「娯楽」の上に「思考」が掛け算された「虚構」の中に存在するものと思われます。(趣味≒娯楽×思考≒教養?)いずれにしても、ハリル氏の「サピエンス全史」と「ホモデウス」は一読の価値があると思います。娯楽の本質は感覚器官が直接検知する「実」であり、趣味の本質は知性が関与する「虚」かもしれません。
9、趣味と教育(1)
私達は何のために生きているのでしょうか?そんなことは、解かりません!気が付いたら生きていた、というのが本音でしょう。そうです!人間は、気が付いたら生きていたと感じ、しかも、自分が死んだことは確認できません。人(多分すべての動物)は自分の死を自覚する前に、脳がその機能を失うため、自分の死を確認することができません。人の脳は自分を自覚するために、生まれてから約2〜3年(言葉を獲得するまで)を要します。人間は気が付いたらこの世に存在し、その死を自覚できない以上、ある意味「死ぬことはない」と考えられます。よって、この世に生存したことを認識したその時から、命は永遠に続くとも考えられます。やはり、チコちゃんではないけれど「ぼっと生きていてはいけない」のかもしれません。では何をするべきなのでしょうか?ほとんどの日本人は(他の多くの国の人も)、父母や学校の先生から「教育」を受けて成長します。そして、その受けた教育内容に従って生きる人もあれば、それに逆らって生きる方もいます。いずれの場合も、父母や学校の先生からの教育が、その後の人生に大きく影響していることは事実です。でもその教育の内容はどのようなものなのでしょうか?誰が、どのように教育内容を決めているのでしょうか?その多くの部分が文部科学省を含む学校関係者によってきめられていることは間違いありません。人間の思考の大部分は先天的なものではなく、後天的なものです。特に学校教育は絶大な影響力を持っていると思われます。ここで、趣味や娯楽に関する教育はどのようなものだったのか、検討してみたいと思います。現在、趣味や娯楽を目的とした教育はあるでしょうか?音楽や絵画、体育などは授業の科目にありますが、少なくともゲームに関する教育はありません。現在の社会が必要とする人材を育てることに主眼があり、個人のための教育ではありません。社会が必要とする知識と個々の人が必要とする知識は必ずしも一致しません。教育はそのままほっておいたらできないものを教えることだけではなく、娯楽のようにほっておいたらやりすぎてしまうものに関する自制心を養う教育も必要かもしれません。社会の利益と個人の利益は必ずしも一致するとは限りません。社会の利益になることのみならず、個人の利益になることも教育する必要があるかもしれません。高齢者が仕事を終えて会社社会から離れた後、やることがないなどということは問題です。会社から帰宅したら、食事をして風呂に入って寝るだけでは、あまりにも貧弱な人生ではありませんか。「社会の利益≠個人の利益」要するに、全体教育から個人教育への転換が必要かもしれません。宗教心が失われ、現世利益を追求する世の中にあっては、個人の利益が優先すると思われ、社会全体の利益のみに寄与する教育をする時代から、個人に利する教育をする時代に変わらなければならないのかもしれません。無論、理想は、「個人に利する教育」=「社会全体に利する教育」ですが…。(もっとも、そんなことを言っていたら、国際競争に負けて日本が沈没するかもしれませんが…。)
10、趣味と教育(2)
趣味となり得る行為には、職業から遊びまでのすべての行為が含まれます。すなわち、人の行為のすべてが趣味に成り得ます。そして、それは音楽や読書、絵画など芸術的な行為、登山やスポーツなどの体育系のもの、天体観測や無線通信、昆虫採集など科学技術的なもの、さらに家庭菜園などの農業系などに分けられると思います。囲碁や将棋、コンピューターゲームなどのゲームは娯楽的な要素も含んでいますが、趣味といってもよいと思います。ただし麻雀や競馬など賭け事になると、やはり娯楽と言わざるをえません。また、音楽といってもカラオケは、趣味と娯楽の中間的なものとなるような気がします。(やはり、趣味と娯楽の境目は難しい。)このように、多くの人間の行為が趣味になり得ます。したがってそれらを分類することはあまり意味がないかもしれません。ただ、よりポピュラーな趣味に関しては、それらを教える学校(教室)が近年多く存在するようになりました。水彩画教室、スキー教室、習字教室、ピアノ教室など、多くの人が趣味としている行為には趣味教室が存在します。学校教育では十分に教えてもらえない、しかし独学では十分な技術や知識が養えないからです。現在自分がやっている職業が趣味になれば趣味教室に通う必要はありませんが、一般的には、自分の職業と関係が薄い行為が趣味になるからです。趣味教室は職業としてのものもあれば、ボランティア活動的なものもあり、近年その数が増加しているように思われます。社会の構成員の高齢化がその要因のように思われますが、このような趣味教室の増加傾向は歓迎すべきものと思われます。現代のようにストレスが多く存在する社会においては、趣味は人生を豊かにすごすために必要欠くべからざる存在になってきていると思います。多くの方が、より有益な趣味を持つことは、社会にとって良いことだと思います。今後、AIやロボットが人々に代わって多くの労働を行うようになり、人々の余暇は増々増加すると思います。今後は学校教育においても、趣味に通じる知識教育を強化すべきかもしれません。最も、教育すべき事項は社会の進歩と共に増加します。趣味教育に感けている暇はないかもしれません。やはり趣味は自分で勉強するしかないか…。(人工頭脳AIやロボットによって、人々の余暇が増加するかどうかは、微妙です。人々が労働しなくてもよい世界では、人間の存在意義が問われます。人工頭脳を超える能力を持たない限り、その存在意義は他の動植物と同列になるかもしれません。趣味や娯楽に感けていると、落ちこぼれになるかもしれません。もしかしたら、趣味や娯楽などという言葉はなくなるかも…。恐ろしや!くわばらくわばら!)
11、趣味と戦争
ホイジンガーは「ホモルーデンス」の中で、戦争と遊びについて記述しています。彼の言う「遊び」は趣味と娯楽を含んだものです。彼は遊びの2つの高度な機能が、「戦い」と「演技」であると言っています。つまり、戦争には遊びの要素があると言っています。だから国家間の戦争でも「戦時国際法」などのルールが存在します。ルールがあるのは遊びの特徴です。特に原始的な戦争には競技的、すなわち趣味や遊びの性格が現れていると言っています。戦争をしている人々は、お互いに戦争は神聖であり、正義の行為と思っています。だから戦争をすることが職業である武士や騎士には武士道や騎士道があるのです。戦闘員が神に戦勝を祈願するのは、神が「その戦争は正義である」と認めていると思っているからです。むろん、戦争が遊びだと思っているわけではないでしょう。しかしながら、そこに遊び(趣味や娯楽)の要素があるとすれば、どこかで人々は戦争を楽しんでいるのかもしれません。その証拠に、どこかで人が死んでいるにも拘わらず
、戦争に勝利したときは人々は歓喜し、不利になればショゲます。だとすると、戦争はなくならないのでしょうか?「人はなぜ戦争をするのか?」ということについて、アインシュタインとフロイトが手紙でやりとりをしたそうです。100年ぐらい前のことだそうです。その手紙のなかに、「文化が発展するに従って、戦争が少なくなる。」という意見をフロイトが記述しています。フロイトは人間には2つの欲動、「破壊的欲動」と「愛的欲動」があると言っています。この2つの欲動が複雑に絡み合って、戦争が起きるといっています。要するに、人に欲動がある限り、戦争は無くならないといっています。ただし、前述のごとく、「文化が発展するに従って、戦争が少なくなる。」という傾向を指摘しています。ただし、文化の発展が戦争を根絶できるとまでは言っていません。多分彼は、「戦争は根絶できない」と考えていたのかもしれません。しかしながら、文化と戦争の関連を考えることは、必要かもしれません。文化と言っても、その範囲が広く、科学技術や民族思想に関わる文化は一方で大きな戦争を引き起こしています。また、知性に基づく思想は戦争を抑制するかもしれません。フロイトの指摘、「文化が発展するに従って、戦争が少なくなる。」が今でも通用するかどうか明確ではありませんが、なんとなく、趣味や娯楽が戦争を少なくするかもしれないという幻想(?)を、私は抱いています。なぜならば、趣味や娯楽は欲動の捌け口になるかもしれないからです。オリンピックが戦争を少なくしているかどうかは解かりませんが、少なくとも戦争を助長しているとは思われません。スポーツや音楽、芸術などが、どのように社会と結びついて、戦争を減少させているかはわかりませんが、知性の進歩が戦争を無くすことができなければ、人間に未来がないことになります。よって、多分フロイトの観察は正しいのだろうと思います。趣味や娯楽は戦争を無くすことができるか…?
12、趣味の種類
10項「趣味と教育(2)」の項で記述したごとく、趣味に成り得る行為は非常に多く存在します。また、文明が進歩するにしたがって、新たな趣味が生まれます。その良い例がコンピューターを用いた趣味です。今後も趣味の数は増加し続けるでしょう。しかしながら、一人の人は一生にできる趣味はせいぜい3つぐらいでしょう。前記のごとく、どの趣味が良い趣味かなどという議論は意味がありません。趣味は個人の好みによって選択されるべきであり、他人がとやかく言う筋合いのものではないと思います。ところで、趣味には読書のような受動的な趣味と、DIYのような能動的な趣味があります。また、同じ分野の趣味でも、より能動的な行為が主である方と、受動的な行為が主である方がいます。例えば音楽分野では、楽器演奏やカラオケのような能動的な行為を趣味とする方もいれば、音楽鑑賞のような受動的な行為を趣味とする方もいます。無論、音楽鑑賞もするし、楽器演奏も趣味ですという方も多く存在します。受動と能動のどちらがよりストレス緩和に有効かはケースバイケースであると思います。初めは受動的であった趣味が能動的なものに興味を持つようになったり、またその逆もあると思います。例えば、音楽分野において、初めはレコード鑑賞に興味を持ち、ライブ鑑賞を経て、楽器演奏をするようになったり、また初めは絵画を描くことに興味をもつようになり、よりよい絵を模索しつつ絵画鑑賞に浸るようになる場合もあると思います。趣味は職業ではないので、多数の趣味をあまり深く追求しないで楽しむこともよし。また、一つの趣味をどこまでも深く追求することも良いと思います。人が興味をもつものはすべて趣味になり得ます。そこから文化が発展するのだと思います。趣味の種類は無限大…?
13、趣味と芸術(アート)
趣味の中でも最もポピュラーなものが音楽やダンス、絵画、彫刻、俳句など芸術に関するものです。映画や写真も芸術の範疇に入ると思います。では芸術とは何か?実は結構難しい問題です。現在、日本において芸術と言われている範疇の多くは、明治時代に設立された東京美術学校(現東京芸術大学)の岡倉天心(校長)やフェノロサ(副校長)らが主張した価値観に基づいているように思われます。その後、多くの芸術家や文化人と呼ばれる人々によって、時代とともにその中身は変遷していますが、私のような素人にとって、基本的な部分ではあまり大きな変化はないように感じます。明治初期に廃仏毀釈運動の最中、多くの仏像が破壊されましたが、フェノロサらによって、仏像は芸術作品としての地位を確立し、いまだにその価値が評価されています。桑原武夫は俳句を第二芸術と言っていましたが、正岡子規や高浜虚子によって確立された美学としての価値はいまだに評価されています。(雑誌「ほととぎす」はいまだに発行されています。)だた、同じ映画でも、芸術作品と娯楽作品は区別されているようです。要するに音楽やダンスなどすべての作品の中にも芸術とそうで無いものがあるということです。ここにも、明治時代の美学なるものが作用しているように思われます。しかしながら、ゆっくりとではありますが、芸術の範囲は徐々に拡大しているように思われます。例えば絵画においては、宗教画→写実画→印象画→抽象画のように変化した結果、サルバトール・ダリの絵のような、どう見てもグロテスクなものが芸術の範疇に入るようになり、ピカソやデュシャンの絵も芸術の範疇になっています。もはや絵画は美術でないことは確かです。(デュシャンの絵が美しいと感じている方もいるようですが、美の拡大解釈だとしても、私は理解に苦しみますが…。)美術という言葉は、かなり拡大解釈されていると思います。ピカソの絵を展示するなら、美術館ではなく芸術館(〜芸術館などという名称の展示館はあるのか?)にすべきかもしれません。ここで、木下直之の「美術という見世物」という本がおもしろい。彼は、それまで見向きもされなかった絵画や彫刻などに注目し、芸術的な価値とは何か、現在の芸術の価値体系に一石を投じています。要するに「珍」なる芸術や「妙」なる芸術は、やがて真の芸術と評価される時代がやってくるかもしれません。芸術も諸行無常です。でも素人の趣味としては、抽象的な近代アートは適さないように思います。なぜならば、趣味は芸術性の追求が主ではないからです。多くの方は一つの一般教養として、またコミュニケーション(お友達作り)の道具として趣味を楽しんでいます。では、趣味(教養?)としては、どのような芸術分野を選択すべきでしょうか?近年、絵画教室や俳句の会など多くの芸術に関する活動が活発に行われています。多分そのような会に入会するのが手っ取り早いでしょう。その会が取り組んでいる趣味が、芸術的か否かなどと問うことは、あまり意味のないことかもしれません。なぜならば、それは時代によって変化するからです。時代とともに教養の中身は変化します。中身のみならず言語そのものの意味まで変化してます。「教養」などという言葉は「古語」になるかもしれません。
昨今は、古語は知らなくてもOKですが、流行語を知らないとバカにされる時代です。趣味を選択するに当たって考慮すべき事項はただ一つ「それが楽しいかどうか」だと思います。
なお、芸術を理解するには、それなりの勉強が必要だと主張する方がいます。確かに、何かを理解するには、それなりの知識が必要になります。でも、能を理解するには「風姿花伝」を理解し、能を舞ってみなければならないのでしょうか?ピカソの絵を理解するにはキュビズムの絵を描いてみなければならないのでしょうか?芸術は素人の世界から遠ざかりつつあるのでしょうか?特に近代の芸術では、内面が強調されているように思います。自然をそのまま表現するのではなく、その「内面」を表現するのだと。しかしながら、内面は自然の中に存在するのではなく、それを表現する人(芸術家)の中に存在するので、その芸術家の内面を知らなければ鑑賞できないのではないかと思います。よっぽど、作品の作者の内面を知らない限り、作品を鑑賞できないのでは?中途半端に作者を知っているだけでは、作品を誤解するのでは?それとも、鑑賞者は作品を勝手に鑑賞する方がよいのか?もしそうならば、作品の作者は公開しない方がよいのでは?作者を公開すると、中途半端な誤解を生じるのではないか?でも、趣味として芸術を鑑賞するのであれば、例え作品の内面を誤解したとしても、あまり問題はないので、しっかりと内面を鑑賞するのは学芸員に任せておくのが良いように思います。
14、趣味とスポーツ
近年、サッカーやバレーボール、スキー、ゴルフ、登山などスポーツに関する趣味も盛んになってきました。体力の向上や健康への関心が高まっていることが原因の一つですが、スポーツの推進には別の目的があるようにも思います。NHKの「いだてん」を見ていて感じたことは、当時オリンピックは国威発揚の道具であったということです。多分現在は、経済的効果を狙っており、国威発揚の道具ではないとは思います。でも国民栄誉賞のことを考えると、政治との関連を否定することはできません。しかしながら、多くの人にとって、スポーツをすることやそれを観戦することは楽しいことであることは間違いありません。ラグビーワールドカップの視聴率は50%を超えたそうです。スポーツ観戦は娯楽の代表格です。その興行収入は莫大で、非常に多きな経済効果をもたらしていると思います。また、人々のスポーツへの関心が高まれば、スポーツをする人が増え、健康増進に役立ち、よって医療費が減少するかもしれません。(長生きすれば年金が増加するので相殺されるかも?)が、一方でプロスポーツの世界は、スポーツ観戦者が楽しむことと裏腹に厳しい世界になっているようです。プロは観戦者をより楽しませるため、より高度な技術や強靭な肉体が要求されます。ゴルフなどの一部のスポーツを除き、多くのプロスポーツの現役は三十歳代までがせいぜいです。趣味としてのスポーツとプロの世界は全く異次元の世界です。なんだか腑に落ちません。なんだか気色悪いです。これはスポーツに限ったことではありません。プロと素人の趣味の世界が別次元であるにも関わらず、なぜ人は趣味の世界で楽しむことができるのでしょうか?人は自分ではできないような高度なことをこなす人に「憧れ」を持ちます。心理学では「同一化」と言うのだそうです。憧れの人と一体化したような気持ちになることによって不安を取り除いているのだそうです。劣等感の現れといっても良いかもしれません。では趣味は劣等感を克服するための道具?無論そのような面もあるかもしれません。でもそれだけではないでしょう。特にスポーツでは、体を動かし、汗を流し、適度な疲労感に浸って快感を得ることが目的の方も多く存在します。これはヒーロへの憧れとは別物です。要するに趣味の楽しみ方は色々だということです。スポーツが趣味という方もその楽しみ方は一つではないのです。私はサッカーの観戦が好きですが、サッカー選手への憧れでもなく、サッカーをして汗をかくこともありません。では私はサッカーを観戦して何を楽しんでいるのでしょうか?自分自身のことなのに、楽しい理由が分からないのです。外部からの刺激が人の感覚に及ぼす影響に関して、まだ分からない部分が数多くあると思います。(従来、「かゆみ」の感覚が「弱い痛み」の感覚であると言われていたが、最近、「かゆみ」と「痛み」は別物であるとの研究結果がでたとか。)趣味は、それがその人にとって楽しいことなのです。スポーツを実際に行うことが趣味の人は、それが楽しいのです。スポーツを観戦することが趣味の人は、それが楽しいのです。その理由を詮索することは心理学者にお任せすることをお勧めします。ただ楽しめばよいのです。
15、趣味と科学
模型やラジコン、パソコン、昆虫採集や天体観測など、多くの趣味が科学技術分野に存在します。多分そのような趣味を持っている方は、科学技術を必要とする職業に従事していた方が比較的多いのではないかと思います。要するに、知識が科学技術分野にあるためその範疇で趣味が成立しているのだろうと思われます。このような趣味は感性に直接うったえるものではなく、達成感のような間接的な感性の刺激です。このような達成感を味わうことを目的とした趣味は、職業において味わった成功体験と同じような感覚を趣味においても味わいたいと思っているのだと思います。ただし、職業とは別の分野の趣味を持っている方も珍しくはありません。俳優の香川氏は昆虫の研究を趣味にしていると聞いています。芸術分野の方が科学分野の趣味を持っています。このような場合に、異分野の組み合わせによる新たな趣味の創出、場合によってはそれが新たな科学や芸術の創出になるかもしれません。趣味が本業の発展に寄与したり、新たな分野の創出につながることもあると思います。知識は「発見」と「組み合わせ」によって発展してきたように思います。科学、スポーツ、芸術などの異分野の組み合わせによって、イルミネーションなどの光の芸術が生まれたり、スポーツ科学によって新記録が生まれたりしています。ステーブジョブズ氏(科学技術者兼実業家)は音楽が趣味であったため、アップルのパソコンは音楽に適しているとのことです。(現在のポップスの多くはパソコンで作成されています。)また、スポーツと芸術の組み合わせによってシルクドソレイユのような芸術的な運動(スポーツ)の世界が生まれています。今後も組み合わせによる各分野の発展があるかもしれません。
ところで、科学技術には限界はないのでしょうか?近年、量子コンピューターが実用化に近づいているやの報道があります。遺伝子工学が人間を神に近づけるかもしれないと言っている人(ハラリ氏)もいます。何となく、それらが本当のような気もします。しかしながら、科学技術のみならず、芸術分野でも、スポーツの分野でも限界があるようにも思えます。音楽ではメロディー不足と言われ、マラソンのタイムも2時間が限界ともいわれています。私は限界があまり好きではありません。多分多くの方が限界があることを嫌っていると思います。どこかに、限界を超える手段がないか?あるかもしれません。それが「組み合わせ」だと思います。異分野の組み合わせは、きっと新たな分野を創造することを可能にすると思います。そして、その手段が趣味の充実ではないかと思います。(チョット言いすぎ!)ステーブジョブズ
氏は音楽が趣味だったので、音楽に適したパソコンを発明したのかもしれません。趣味は知識を育む一つの手段ではないでしょうか?ハラリ氏は知識は第三の資源だと言っています。(他の2つは原材料とエネルギー)よって趣味は地球の資源を育む手段かもしれません。趣味は人間を神にするかも。(これもチョット言いすぎ?)
16、趣味とゲーム
ゲームとは何か?私は、将棋や囲碁、マージャン、トランプ、コンピューターゲームなど、勝敗があってスポーツではないものをゲームと定義(?)しています。(カジノもこの中に入る?)実のところ、あらたまって「ゲームとは何か?」と聞かれると、困惑してしまいます。でも本項では、ゲームの定義には深入りせず、「勝敗があってスポーツではないようなもの」をゲームと言うことにします。さて、近年のコンピューターゲームの流行は、目を見張るものがあります。まさに、ゲームと言えばコンピューターゲームを指すと言っても過言ではありません。コピューターゲームはEスポーツという種目で、アジア競技大会では正式種目になるそうです。コピューターゲームは当初、子供の遊びとして始まりましたが、特に都会では、子供の遊び場の減少や子供たちが集まって遊ぶ機会の減少によって、相手がいなくても家庭で手軽にできる遊びとして、瞬く間に流行しました。そのコピューターゲーム世代が大人になって、Eスポーツという種目ができるまでに発展しました。社会全体の子供化のようなことが起きているのではないか?本来のスポーツのように、過酷な鍛錬によって身体を鍛えるようなスポーツから、椅子に座って手のみを動かすEスポーツにスポーツが変化しているのではないか?社会全体が、安易な方向に向かっているような気がします。農業では、鍬から耕運機に変化し、家庭の洗濯作業においては盥から洗濯機に変化しました。このような仕事の効率化と、Eスポーツのような遊びの効率化(運動場面積や体力消費の効率化)が同じ土俵上で語られているような気がします。もっとも、Eスポーツも体力(持久力)勝負であり、運動場でのスポーツと何ら変わらないという主張もあります。そのような主張が経済優先の自由主義経済の我田引水的主張ではないことを願います。なお、私はコピューターゲームをスポーツとは別に扱った方が良いと思っているだけで、コピューターゲームを否定している訳ではありません。例えば、Eゲーム競技会、Eゲームオリンピック大会などにして、これまでのスポーツとは違うものとした方がよいように思います。スポーツとは何か?体力勝負のものは全てスポーツか?言葉の解釈を広げると、やがて「美」のように意味不明になって、言葉のコミュニケーション機能が減少するような気もします。最も、13項「趣味と芸術(アート)」の項で記したように、流行語や新語は常に生まれており、それによってより微妙なニュアンスが表現できるようになっていることも事実です。やはり「Eスポーツ」は「有り」か?(スポーツとは何か?言語の意味を拡大解釈すると、そのうち訳が分からなくなりそう。HELP!)
17、趣味と読書
読書を趣味にしている人はかなり多いと思いますが、徐々に減少傾向にあるかもしれません。読む行為より、TVや映画、ユーチューブなどの映像で知識を吸収する方が簡単で且つ時間短縮になるからです。近年、図書の出版数が減少傾向にあり、読むという行為に面倒くささを感じている人々が増加しています。読む行為だけではなく、書く行為もパソコンのワープロ機能によって激減しています。でもこの事実を否定し、読書を強制しても多分無駄です。吸収すべき知識は年々増加してます。歴史などは言うもがな、科学技術の進歩は加速度的であり、学ぶべき知識は時と共に増加します。読んでいる暇などありません。しかしながら、思い出してください。学校での勉強で、先生の話を聞いただけでその内容を理解できたでしょうか?「聞いて」、「読んで」、「書いて」を繰り返して、やっと記憶の片隅にとどめることができたように思います。聞いたり見たりしただけでは、その記憶はすぐに消滅すると思います。しかしながら、時と共に吸収すべき知識は加速度的に増加しています。問題は、より多くの知識を効率よく吸収することが必要になったということだと思います。(時々、知識より知恵が重要だとおっしゃる方にお目にかかることがありますが、知恵は知識によってより充実することを理解してないように思えます。)少ない時間でより多くの知識を吸収するためには、やはりより応用の効く、基礎的な知識を、正確に吸収することが重要であると思います。要するに、読む本を厳選することが肝要かと思います。その一つの目安が発行部数だと思います。やはりより多くの方が関心をもつ本は、一度目を通しておくことが必要だと思います。また、科学技術分野においては、数学、物理、化学など基礎技術は繰り返し学習する必要があると思います。やはり今日の多くの趣味は科学技術的な分野の知識が必要になっていると思います。料理、スポーツ、パソコンなど、医学や技術的な知識が有用な分野が多いと思います。また、絵画や詩歌などの芸術分野においては、その発展の歴史を学ぶことによって、より理解が深まり、趣味に厚みが増すと思います。やはり書物(電子書籍を含む)によって基礎を学ぶことは、趣味においても有効なことと思います。なお、書籍が読まれなくなった理由は、TVや映画にあるだけではないようにも思えます。書籍の内容にも問題があるかもしれません。読む価値のある書籍が減ったのかもしれません。(なお、私のこの記述が読む価値のあるものであると言っているわけではありません!)
18、趣味とDIY
近年、DIYを支えるホームセンターが隆盛を誇っています。嘗ては専門家しか手に入らなかった道具や材料が素人でも簡単に入手できるようになった結果、DIYを趣味とする方が増加したのだと思います。また、家具屋さんに並んでいる商品では満足できなくて、自分で満足のいく家具などを作りたい方が増えているのかもしれません。手先を動かすことは、脳の活性化に繋がるようです。また、DIYの作業は、詩や絵画などのような1次元や2次元的なものとは違い、立体的な構成をイメージすることが必要となり、より頭を活性化することができると思います。ただ、やはり、大工仕事は多くのスペースを必要としたり、騒音などの問題があり、都会でやるにはかなり困難なことのように思います。十分な資金があれば、別荘を持つことも良いかもしれませんが、一般的には、DIYは都会から離れた地方に住んでいる方の趣味のように思います。都会は労働に特化した効率的な構造を追求しているため、やはりストレスの解消に関する配慮は、キャバレーやホストクラブなどの娯楽施設の風営法の緩和がせいぜいなのかもしれません。やはり、都会は金のかかるところのようです。(なお、私は娯楽施設の構築に反対を表明している訳ではありません。単に、DIYは都会には適していないと言っているだけです。誤解のないように!)
19、趣味と自然
多くの趣味は自然との関わりがあります。登山やサーフィン、釣りなどのスポーツ、また、写生や風景写真などの芸術に関するものや野鳥や昆虫の観測などの科学技術に関するものなど、趣味と自然は密接な係わり合いがあります。ただ、趣味の対象としての自然と、環境保護の対象としての自然は多少違ったもののようです。両者は時々、相反することがあります。確かに自然に興味を持つことが自然を大切にすることの第一歩であるとは思います。しかしながら、山の自然が登山者の増加によって荒らされることも事実です。釣り人が放置した糸によって鳥が傷つけられることもあります。人と自然との関わり方は、それほど簡単ではないと思います。なぜならば、人にとって自然は必ずしも良いものではないからです。そして、人は自然から嫌いな物を排除したがります。その結果、自然界のバランスが破壊され、自然が自然ではなく、人工化することになります。美しい風景は全くの自然の中には存在しないのかもしれません。都会に暮らしている子供が田舎に旅行に来て、トンボを見た瞬間、怖がって逃げ回っていたのを思い出します。人が心地よく感じる自然は、既に何らかの人為的な改造がなされた自然モドキなのかもしれません。もはや手つかずの自然を維持することは不可能な時代になっているかもしれません。現在、人の手が加わっていない自然は、人の住めない地域に限られています。このような現状を少しでも改善するためには、自然にかかわる趣味をより多くの方に推奨することだと思います。自然に関心を持つ方が増加すれば、多少なりとも自然保護に役立つのではないかと思います。ただし、風景雑感でも記述しましたように、人は神様ではなく自然の一部です。よって人の成すことは自然の一部と考えてもよいのではないか?よって今の地球は自然のままであると考えても良いと思いますが…?
20、趣味と旅行
旅行と一口に言っても、観光目的のものもあれば、バイクや自転車でのツーリングを楽しむもの、更には湯治などの保養や、化石や地形の研究調査、ビジネス旅行など、その目的は多彩です。ただ、研究調査やビジネス旅行以外はやはり趣味(観光は娯楽?)の範疇だと思います。旅行は、資金さえあれば、比較的簡単にできる趣味であり、ストレス解消にも役に立つと思います。中でも観光旅行の目的は日常からの離脱によるストレスの解消かと思います。なぜ人は日常生活に対して、大きなストレスを感じるのでしょうか?近くに嫌いな人(旦那様?OR奥方様?ORお姑様ORご近所様ORその他様?)がいるから?同じことをしていると退屈だから?仕事に疲れたから?勉強に疲れたから?いずれも、旅行によって抜本的なストレス解消にはなりません。そんなことは承知の上で旅行に行きます。もちろん私も旅行は大好きです。(ストレスが大きいためではありません。ただ旅行が好きなだけです。ただ資金の問題で行けないだけです!)でも抜本的なストレス解消にならなくても、ストレスを解消できるのが人間の良いところです。一時的であっても、副交感自律神経が優位になることによって、人は次のステップに進むことができるようです。この旅行というストレス解消法に最も貢献した設備が自動車であることは、誰もが認めることと思います。自動車が観光旅行に果たした役割は多大なものがあります。もちろん飛行機や列車、船舶のような移動機関も旅行に対して大きな貢献をしています。しかしながら、自動車に比較すればその貢献度はかなり少ないものと思います。ただ、自動車はそのような便利さを人々に提供する傍ら、NOXやCO2など、害ももたらしています。自動車に限らず、人に利益をもたらすものの多くはその逆の効果ももたらしているようです。原子力は人に電力を提供すると同時に核兵器も提供します。農業は食料を人にもたらすと同時に自然を破壊しています。割り箸は人に衛生的な食事をもたらすと同時に、森林伐採をもたらしています。どこかでバランスに注目しなければならないのかもしれません。でも、バランスをとることは極めて困難です。なぜならば、平衡状態は鞍部点のような不安定な点に存在することが多く、そこから一気にバランスを失うことが多いからです。一度崩れたバランスは元に戻らないのかもしれません。なるようになるのかもしれません。でも旅行は楽しいです。
21、趣味とコミュニケーション
人は同じ境遇の人を仲間と感じるようです。同色人種、同国、同郷、同学、同業など、何かが同じであることに共感を抱き、また、その反対の差別意識も「同じ」でないという意識から生まれます。人は環境から得た情報に基づき、自我を構築します。何かが「同じ」であることは、人々に意識の共有感をもたらし、安心感を抱かせるように思われます。特筆すべきは軍人の仲間意識です。戦争になれば、敵になり殺しあうはずの他国の軍人との間でさえ、仲間意識があるのは驚きです。人は他の人と共通の感覚を持っていると感じた時、その人を仲間と感じるのだと思います。趣味はその仲間意識を構築する最も良い手段の一つだと思います。近年、素人の絵画や書の展覧会が数多く開かれています。同じ趣味を持っている人達が集まって、その出来栄えを競い合うなど、趣味を介してのコミュニケーションが活発に行われることは、文化の発展に大いに寄与するものと思います。趣味を通じてのミュニケーションは、国や地域を超えた仲間意識が生じるように思います。特にスポーツや芸術は人種や国境を越えて、人々に仲間意識を構築することができるように思われます。フロイトが「文化が発展するに従って、戦争が少なくなる。」と言ったのは、このことかもしれません。戦争の原因が、資源の奪い合いや、お互いの文化や宗教の違いであっても、コミュニケーションによりお互いの立場を理解することによって仲間意識が育成され、争いが減少するかもしれません。(文化が戦争をなくせるならば、もうとっくに戦争はなくなっているはずではないかとも思いますが…)
22、趣味の意義
趣味や娯楽は職業と密接に関連し、その発展は戦争を防止するカギになると思われます。また、交感神経を安定化して、人の不安を解消し、健康増進にも役立ちます。更に人と人とのコミュニケーションに役立ちます。多分、経済の発展にもつながるでしょう。(カジノを推奨しているわけではありません。念のため。)文化を多くの人々に浸透することは、重要なことかもしれません。少しの専門家が独占すべきものでは無いでしょう。専門家は専門分野を追求することが第一の役目であると同時に、多くの人にその真髄を解からせることも重要な役目であると思います。最も、文化的な娯楽(趣味)は、それなりに努力しなければ理解が深まりません。今後趣味の教育は更に重要になると思います。趣味は勝手にやればよいという考えは、時代遅れかもしれません。ほとんどの方は来世の幸せより現世利益を追及していると思います。趣味はやがて大きな産業になります。消費の多くの部分を占めるようになると思います。GDP(国内総生産)のかなりの部分は消費です。趣味の充実は社会にとっても、個人にとっても意義あるものと思います。最も、そのためには社会がより豊になることが必要でしょう。「豊」とはなにか?それは社会不安をなくすことです。現在の社会は不安を煽って、人々の行動を意図した方向に向かわせようとしているような気もします。人々が趣味や娯楽をゆったりと味わうことができる日が、将来やって来るのでしょうか?もし現代社会がそれを目指しているのであれば、多分そのような日は、やがてやってくると思いますが…。
ところで、趣味や娯楽を行うことは、それなりの意味はあると思いますが、やはり、中身が問題です。交感神経の安定化や不安の解消、健康増進に役立つかどうかは、その中身(種類、目的、頻度、習熟度など)によります。また、どのような趣味が良いかは、個人によってもかなり違ってくると思います。趣味の意義は個人の問題かもしれません。私の趣味の一つは魚釣りですが、魚釣りは動物虐待であり、あまり良い趣味ではないと言った方がいました。魚を釣ったり、魚を捌いたりすることは屠殺のようで下品だと。でもその方は刺身が好物であるとも言っていました。魚を捕ることには反対だけれど、食べることは好きだそうです。いやなことは他人任せにする「貴族」の考え方は、私の好みではありません。その方の趣味はマージャンでしたが、私はその趣味を悪い趣味だとは言いません。ただ私は賭け事をあまり好まないだけです。やはり、趣味の意義は個人の問題だと思います。
23、趣味・娯楽の未来
趣味は文化の基であり、知的欲求を満たしつつ、ストレスを解消するための行為と考えられます。もちろん、娯楽も文化の一部を担っていると思いますし、趣味との違いは意外と小さいかもしれません。もし、趣味と娯楽に違いがあるとすると、知的な部分がどの程度あるのかによると思います。ただ、どちらも、ストレスを解消して自律神経を整えるために必要とされるものと思われます。自律神経が不安定になる理由は個人々々で異なるため、それを安定化する方法も個人々々で異なるでしょう。また、時とともに趣味の種類も変化するものと思います。よって、趣味の種類はますます増えて、膨大なものとなるのだろうと思います。でもそれでよいのです。これからの時代、人の存在意義は、「より多くのことに興味(≒趣味)を持つこと」になるかもしれません。AIやロボットが活躍する時代にあっては、人の存在意義が基本から問われることになると思います。多分、職業の形態は激変すると思います。人はこれまでの歴史において、仕事をすること(労働)が最も重要なことであり。趣味や娯楽はその余暇に行うものでした。しかしながら、やがて労働の多くが人を必要としなくなるかもしれません。すなわち人は、労働によって生きるために必要な物を生産することが必要でしたが、それが人工知能(AI)やロボットによって取って代わられる時、労働は生きるための必要条件ではなくなることになります。すなわち、労働の多くが人工知能(AI)やロボットによって代替される時代にあっては、人は趣味や娯楽により多くの時間を費やすことが可能になります。高額なベーシックインカムのもと、多くの市民は平安時代の貴族のように、雅な世界で「和歌や蹴鞠(?)」に耽ることが可能になるということです。やっと市民階級が貴族になる時代がやってきたのかもしれません。平安時代の貴族達は枕草子や源氏物語などの文化を構築しました。今後はAIやロボットができないこと、すなわち、人類の文化の発展に寄与するような行為である趣味と娯楽が、人類の生きがいになるかもしれません。でもなんとなく変です。そんな甘い世界がやって来るでしょうか?ハリル氏はその著書「ホモデウス」の中で、ほんの少しの高い能力を持ったエリート(超人)がAIやロボットを操作して、全ての権力を握り、その他大勢は無用になるかもしれないと言っています。人が労働から解き放されたら、無用になり、生きる意味がなくなるのでしょうか?ここが問題です。多分、人が生きる道は2通りあると思います。その第一は、AIやロボットを凌駕する科学技術力を磨くことです。AIやロボットが人類の能力に近づく頃には、人は医学的な技術(特に遺伝子操作)の進展によって超人に進化しているはずです。よって、人々はAIやロボットを使いこなして、月や火星など、宇宙に飛び出すことが可能となり、新たな冒険を求めて行動することが人々の生きる道だと思います。ただし、AIやロボットも進歩し続けるでしょう。よって人間とロボットの激烈な進化競争が始まるかもしれません。第二は、理性を捨てて感情に生きることです。要するに、すべての労働(頭脳労働および肉体労働のすべて)はAIやロボットに任せ、雅の世界に浸って、趣味と娯楽を楽しむのです。このとき、趣味や娯楽は人類の重要な生きがいになっていることでしょう。ただし、AIやロボットがターミネーター化しなかった場合の話ですが…。(人は効率だけを追求しててよいのでしょうかね?)
24、余談1(オリジナルと複製)
絵画や音楽などを鑑賞する場合、複製とオリジナルの違いが議論されることがあります。音楽はやはり生演奏でなければだめだという人もいれば、音楽ホールでの演奏よりCD(複製)を聞く方がより深く音楽を味わうことができると主張する方もいます。絵画などでは、オリジナルと複製とでは、その価格は天と地ほどの違いがありますが、その「価格」は「価値」を反映しているのでしょうか?本当にオリジナルは複製よりも芸術的な価値があるのでしょうか?2019年の11月、NHKの「レオナルドダヴィンチのミステリー」(?)という番組で、最近の科学分析によって、モナリザの絵が薄い十数層の油絵具で書かれていることが明らかになり、構造色の効果によって肌の色が輝いて見えることが明らかになったことを知りました。多分本物を間近に見たら、その輝きを鑑賞することができるのでしょう。しかし、ルーブル美術館の本物のモナリザの絵はガラスケースの中に厳重に保管されており、しかもいつも多くの人だかりで、モナリザの肌の輝きを確認することなどできません。本物の前にたってもモナリザの絵の真の凄さは鑑賞できないと思います。多分複製を見ているのと何ら変わらないのではないかと思います。また、フェルメールの贋作を作ってナチスを騙したメーフェレンの「エマオの食事」は、フェルメールの作品でないことを証明するのに当時の最新技術(X線写真)を必要としたとのことです。このような簡単に見破れない贋作は、本物とどのような差があるのでしょうか?多分、「本物と偽物の差がある」としか言えないと思います。でもそれが重要なのです。芸術の価値は人の感性で決まるものです。感性には感覚や感情が含まれています。贋作には不純な意図が含まれています。時には悪意が見えることもあります。贋作が本物と酷似していても、贋作の作者の悪意が私たちの感情を逆撫でします。ただし、贋作でもそれを本物と思っている間は、本物となんら変わりはありません。要するに、複製や贋作と対峙するときは、その作品の中に何を見るかによって、その価値が変わるのだと思います。なお、私は複製でも結構満足しています。(本物を買うお金を持ち合わせていないからではありません!念のため。)
25、余談2(趣味と天才)
科学者や芸術家などの中には、天才と言われている方が何人か存在します。天才的科学者の理論は、多くの解説書を参考にしなければ理解できないことがしばしばです。(私などは解説書を読んでも理解できないことがしばしばです。)では芸術の分野、例えば絵画や彫刻、音楽などの分野の天才が製作した絵画や彫刻、楽曲を、私のような凡人はどの程度理解できているのでしょうか?もし芸術が感性の産物だとすると、私のような凡人でも努力すれば、天才の感性の域に達し、それを理解できるようになるのでしょうか?また、そのことにどれほどの意味があるのでしょうか?特にほとんどの人にとって、趣味としての芸術や科学は、天才の思考や感性を理解することを目指している訳ではないと思います。よって天才科学者の理論や天才芸術家の絵画や彫刻、音楽は玄人にまかせておけばよいのではないでしょうか?でも何故かそのような天才の理論や芸術に興味を持ちます。何故かそのような科学者や芸術家に憧れます。この現象はアイドル歌手への憧れと同様に、同一化現象であり、劣等感の現れでしょうか?趣味は劣等感の現れ?21世紀は脳科学が進展するだろうといわれています。無論、脳科学だけでは私たちの心の不思議を解明することはできないと思いますが、天才の思考が少しでも解明されれば、私のような凡人でも少しは天才に近づけるのではないか?と期待してます。なお、現在私はピカソやデュシャンのような天才の絵画の良さを全く理解できません。脳科学の進歩を期待しています。
26、余談3(知性と感性)
知性の対義語は感性ですが、私たちの思考は常にその両方を含んだもので、実際には両者を区別することがきわめて困難であると思います。例えば、絵画を鑑賞する場合に、その鑑賞の対象となる絵の美的クオリティーや作者の意図や感情、技量を推察することは、知的な行為なのか、それとも感性のなせるわざなのか、それともその両方なのか?これは趣味と娯楽の違いが不明確な理由でもあると考えます。実は知性(理性)と感性(感情)は常に干渉しあっているため、何らかの判断や推定、決定がどちらに基づくものかを決めることは、きわめて困難なことと思われます。でもここが人間の人間らしさであり、面白いところでもあると思います。脳から知性と感性の何れかを完全に排除することは不可能なことだと思います。私たちが何らかの行為や判断、推定をする場合、常に知性と感性がお互いに反発したり同期したりして、お互いがある程度満足するような方向に結論がもたらされるものと思われます。でも、常にその両者が完全に満足されることはあり得ません。知性と感性(理性と感情)は常に戦っています。だから悩むのです。だから面白いのです。だから楽しいのです。
27、余談4(趣味と感性)
趣味はどちらかと言えば、感性によって選択されるべきかもしれません。無論、余談3に記述したように、知性の関与を無くするわけにはいきません。ところで趣味の選択において、どのような感性が作用するのでしょうか?その前に、感性とはどのような感覚なのでしょうか?感性は一般的には形容詞で表現され、喜怒哀楽、美醜、高級低級、上品下品、善悪、明暗、豊貧、驚、妙、珍…など非常に多くの表現が存在します。ここで、感性工学なる学問が面白いと思います。感性工学は商品開発などに於いて、感性ワード(
高級低級など)を用いて商品に対する感覚を数値化して評価するものです。各商品ごとに適切なワードを割り当て、多くの人に5段階評価(非常に良い、良い、どちらでもない、悪い、非常に悪い)などによって評価してもらい、商品の良し悪しを判断するものです。特に商品のデザインの評価などに使用されているようです。しかしながら、
感性ワードは数百存在し、しかもどのような層(年齢、男女、貧富など)をモニターにするかなど、多くの課題があると聞きます。感性は形容詞で表現すること自体、かなり困難であり、特に人の無意識の領域から発せられる感覚は言葉を超えた存在と思われます。フロイトによれば、人の心は意識と前意識、無意識からなり、前意識、無意識によって支配される領域がかなりに大きいようです。感覚的な表現は現在の言語で語ることは困難であり、したがって趣味を選択した理由を明確に答えることは多分できないと思います。もっとも、一目ぼれした彼女に接近するため、彼女と同じ趣味を選択したあなたは、明確な選択理由を所有しているとは思いますが…。
趣味は自分自身の無意識の感覚に問い合わせて選択すべきかもしれません。もし、それができるなら…。
28、余談5(知識と知恵)
一般的に、知識だけでは役に立たたず、知恵が必要だと言われています。知識=基礎力、知恵=応用力、と考えられていると思います。また、知識は学校などでの勉強や読書などの学問的知識を指し、知恵は経験などによる実践的な応用力や処理能力を指しているようです。人の能力はその両者を合わせたものですので、一方に偏ることは問題であるとは思いますが、一般的に、人はその一方に傾きがちだと思います。一般的にはこれを、社交性のある人(知恵偏重型)と内気な人(知識偏重型)に分けているようにように思いますが、実は学問的知識の中にも、また経験の中にも、知識と知恵の両方が詰まっていると思います。どちらから攻めるか?それは、個人の性格の問題です。また、取り組んでいる分野によっても異なるでしょう。どちらが良いとも言えません。ただ、知恵と知識は一体として役に立つもので、片方だけでは十分な成果は得られないように思います。趣味は、やってみて、聞いてみて、見てみて、読んでみて、話してみて、楽しむべきかも…。
29、余談6(文系と理系)
文部科学省は(一般的にも)、学問は文系と理系に分かれていると考えているように思います。科学技術と芸術や哲学、法律などは異なる分野で、特殊な状況(絵画のX線分析や陶器のC14年代分析など)以外は、お互いに干渉しあわないと考えられています。これは、文系は虚世界(心?)を扱い理系は実世界(自然科学?)を扱うと考えられており、心は科学によって扱えないか、または扱うのが困難と考えられていたからだと思います。しかしながら、AIがその壁を乗り越えるかもしれません。AIは碁や将棋のみならず、小説さえも書くことができるようになってます。インターネットでのビッグデータから、人の心理や行動を予測したりすることも可能になってます。人の心は単なるアルゴリズムであるという主張は正しいのかもしれません。では今後どちらの分野が重要になるでしょうか?人が演技する映画は古典芸術になり、「アナと雪の女王」のようなコンピュータグラフィック映画は、将来もっとリアルで人が演技するような画面になるかもしれません。舞台演技はロボットがするようになるかもしれません。愛玩動物は全てロボット化するでしょう。今はそんなことがないと思われるかもしれませんが、江戸時代の人は、いや昭和初期の人でさえ、今のコンピューター技術を想像できなかったと思います。やがて、科学技術万能の時代が訪れるのかも?(ただし、地球温暖化の加速化や大きな戦争がなければの話…)
30、余談7(趣味と価値)
趣味にも、その(価格的な)価値を追求するものがあります。その多くは、骨董や絵画、切手などの物を収集する趣味にあると思います。収集を趣味としている方にとって、収集品の価値は重要です。骨董や絵画の価値は、美しさ(芸術性)、希少性、需給によって決まるといわれています。中でも希少性が最も重要な項目のようです。希少性は誰でもすぐ判断でき、分かりやすい判断項目であると思います。しかしながら、「美しさ」については問題が多く存在します。例えば、雪舟の水墨画について、岡倉天心氏は「画聖」と言って賞賛していますが、岡本太郎氏は、彼の絵は芸術ではないと言っています。(美しさと芸術性は、必ずしも一致しないようです。「美しさ」と言った場合は表面的な価値であり、芸術性といった場合は内面的なそれを指すようですが…。)確かに、雪舟の絵は職人芸のような所があり、日光の一筆龍のような気もしないではありません。しかしながら、本来作品は誰が、どのような技法で、どのような意図で、どのような環境で作ったものであるかを斟酌して鑑賞するものではないように思います。作品が一度作者を離れたら、作品そのものが評価され鑑賞されるべきものと思います。しかも、その評価は鑑賞する人によっても異なるものと思います。特に「美しさ」の判断は、男女間や国民性、時代の違いなどによっても変化します。絵画や骨董品などは価値が大きく変化します。やはり、値上がりを目論んだ収集はやめた方が良いかも…。
31、余談8(趣味と競争)
趣味は余暇にゆったりと楽しむもの?ここが問題です。人は趣味においても競争したがるようです。プレバトというTV番組では、俳句や絵画などの趣味に成績をつけて、競争を煽ってます。人は何でも競争をしないと、気が済まないのかもしれません。「争わないと上達しない」という考え方は、今でも生きていると思います。嘗て、中学校や高校で、成績の上位者の名前を廊下に張り出して、成績の向上を図ったこともあったとのこと。でも、趣味も上達のために競争が必要でしょうか?碁や将棋の段位は素人にも必要か?絵画展示会では、佳作や総理大臣賞など多くの賞があります。みな、成績の上位を目指してガンバッています。「趣味は余暇にゆったりと楽しむもの」ではありません。ガンバッて修行しなければなりません。会社と同じです。一に努力、二に努力、三四がなくて、五に努力!何かがおかしい!やはり、太公望のように、一人で釣りをするのが良い趣味かも?(チョット我田引水かも…)
32、余談9(趣味と美学)
趣味の多くは美学と関連しているように思われます。これは芸術のみに限らず、スポーツなどのアマチュア精神なども、スポーツ美学と言えるかもしれません。日本では武士道にも美学があるとされています。ただ、「美しい」とはどういうことかと聞かれると、その答えはかなり難しいと思います。かつて、美人の顔とはどのような顔かを多くの人に尋ね、コンピューター分析をしたら、左右対称と結論されたという話を聞きました。さらに、武士道の美学とはなにか、と聞かれると「美しく生き、美しく死ぬ」ことだそうです。私には理解できません。ギュンターペルトナーは、美学が対象とする事物の不明瞭さが美学の評価を困難にしているといっています。確かに、「美しい音楽」、「美しい絵画」、「美しい詩」、「美しい情景」、「美しい心」など、美学はありとあらゆる感性にかかわっていると思われます。さらに、芸術における美は醜や笑、酷、悲などを含んでおり、さらに、世の中にはサディスティックやマゾヒスティックなことを好む方もいるため、芸術やスポーツなど多くの趣味を美学で語ることはできないかもしれません。しかしながら、多くの人は哲学的な思考から趣味を選択することは少なく、直感的な好みによって選択します。美学の立場から趣味を分析しても、あまり意味はないかもしれません。多くの方の趣味をすることの目的は、ストレスの解消だからです。しかしながら、「美しい」という言葉は不明瞭であるが故に、多くの人が好む言葉ですので、私は多くの方に「美しい趣味」をすることを推奨します。ただし、具体的な提案はしていません。
33、余談10(最終の余談)
だいぶ余談が長くなりました。いつまでたっても終わりそうもないのでこの辺でオサラバしたいと思います。また、暇になったら(もしかして、いつも暇?)別の課題を引っ提げて書きたいと思います。考えをまとめて文章にすると、多少なりとも頭がスッキリしますので。
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